時代を彩ったかつての名機達(9)...最初の御三家の一角にして一度は天下を掴みかけたホビーPC「ベーシックマスター」

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 かつてパソコンは存在せず。コンピューターがマイコンと呼ばれた時代がありました。
 PC黎明期...そんな時代に先駆けて登場したひとつのマイコンが。それまではキットで売られていたり完成品でも基盤むき出しでお世辞にも素人が手を出せるようには見えないものばかり。そんな中に生まれた魔法の箱。
 「ベーシックマスター」と名付けられたその魔法の箱は日本に生まれた小さな光でした。それはやがて一大市場となるパーソナルコンピューターの元祖と言ってもいい存在。
 そのベーシックマスターは初代から「音楽を鳴らす」「グラフィックを動かす」というゲームを作るのに必要な最低限の機能を最初からもっていました。日本初のマイコン...パソコンはホビーパソコンでもあったのです。
 基盤むき出しではなくきちんとした完成品として販売された初期マイコンの傑作。パソコンの黎明期に生まれ出でた「ホビーパソコンの元祖」。後にサーバー分野で確固たる地位を築く日立が生み出した日本初のパソコン。

 今回はそんなベーシックマスターの話になります。
 ベーシックマスターはその名の通り「BASIC」を扱うことを目的としたマイコンでした。マイコンとはいいますが今のカテゴリー分けでいったら間違いなく「パソコン」...パーソナルコンピューターと言っていい存在でしょう。

 登場は1978年。
 特筆すべきはその形状と機能。
 後のホビーパソコン黎明期定番の「本体にキーボードが乗っている」形状はまさにこの機種から。お手本はおそらく前年に発売されたAppleⅡでしょう。

 それまではむき出しの基盤が見える製品が多かった中で、専用の筐体に入った姿は本当に美しいものでした。そして初期からそのコンセプトは明確で...以後のホビーパソコンの姿を決定づけたと言ってもいいんじゃないかな?と思います。
 専用のモニタを持ち...カセットテープを接続してデータのセーブロードが出来て。単色ながらグラフィック画面を持ち。単調ながらも音階をつけて音を鳴らすことが出来たこれはある意味すごい。(今聞くとしょぼいと言われるんですが当時は画期的でした。カタカナで音階つけた)

 そして家庭のTVをモニタ代わりにすることが出来ました。
 価格は高かったもののその存在は稀有と言っていいかと。まだ商品として売れるかどうかわからぬ時代のものですが、基本設計は結構しっかりしていました。

 wikiによれば開発は日立の横浜工場のTV部隊だったというのが面白い。奇しくもSharpのX1と似た境遇から生まれています。日立製作所のコンピューター部隊は別にあったようですから結構な鬼っ子として誕生しています。

 TVにつなげられるのは出自を考えると当然なのかも。

 搭載CPUは6800互換CPU。今見ると性能的にはしょっぱいかもしれませんが当時としては結構使いでのあるものだったと思います。
 搭載されたBASICはオリジナルのもの。最初からモニターコマンドを搭載しており機械語を入力することが出来ました。当時はアセンブラというより16進数のデータを直接打ち込むのが主流でしたからこの機能はうれしい存在。
(当時は命令もデータも脳内変換して16進数のコードを直接アドレスに入れちゃうのが当たり前になってた気がします。PC-6001をいじってた当時の私ですらそんなことやってましたから。もう無理ですけれと(笑))

 翌年にバージョンアップ版が登場します。名前は「ベーシックマスターレベル2」。以後後継機も含めて「レベル2」とか「レベル3」という呼び名で呼ばれることが多くなっていきます。

 私の中ではこのレベル2はあまり記憶に残ってなかったりします。バージョンアップ版の「2Ⅱ」もどうも印象が薄い。

 むしろレベル3と共に登場したJrの方が強烈にインパクトに残っていますか。黒っぽくてなんだかむやみに恰好よかった。今見るとチープな気がしますが子供心には格好良かったんですよほんと。

 このレベル2にMZ-80とPC-8001を合わせて初代「パソコン御三家」なんだそうですが、wikiにも書かれている通りでベーシックマスターは主流にはなっていませんでした。あくまでもマニアご用達...そんなイメージだったかと思います。
 これが大きく動いたのは「ベーシックマスターレベル3」の発売の時。

 CPUは6809を採用。FM-8と同じCPUですが、登場はレベル3の方が先。

 思い切ったバージョンアップをしたため今までのシリーズとは一切互換がないという踏ん切りのいいことをしています。通常なら機種名が変わってもおかしくない(それこそPC-8001からPC-8801へと変わったぐらいの変更だと思います)のですが、シリーズとしてはあくまでもベーシックマスターシリーズ。その三代目という位置付けです。

 さらにAppleⅡに近づいたデザイン。標準状態でひらがなが表示出来るのは画期的でした(当時はアルファベットとカナを半角で出すのがせいぜい。あるいはグラフィック画面に表示するか。レベル3でもひらがなモードと呼ばれる表示モードを使用していた)。

 対応するカセットテープレコーダーは高速化されフロッピードライブもオプションで用意され本格的なパソコンとしての機能が用意されました。
 グラフィック解像度は一気に640x200へ。
 なんというかPC-8001に近づいたベーシックマスターという感じが当時はしたものですが、実際触ると奇妙に似ている部分があったような。うろ覚えですが(^^;

  このレベル3が私の中での「ベーシックマスター」になります。mark5まで出ましたが、私がベーシックマスターを思い出す時に浮かぶのはこのレベル3です。
 6809は当時先進的なCPUに私には思えていたので、Z80で苦労していた身としては大変にうらやましかったのです。FM-8も同様に羨望の目で見ていました。

 1983年まではこのレベル3のマイナーチェンジが繰り返されたので代表機には違いないかと。
 このレベル3がその後MZ-2000(SHARP)やPC-8801(NEC)に多大な影響を与えたと言われています。グラフィック解像度もそうですが、「マイクロソフトのBASIC」を搭載していたのがまた画期的だったかと。

 当時レベル3ユーザーの聖典は「I/O」という雑誌だったかと思うのですが(wikiにもそれらしい記述が)、パソコンとしての性能があがっても...どうしても「マイナー」というか「玄人受け」する機種に甘んじてしまったのが不幸でした。この時一度は天下に手が届くチャンスがあったのですが...無念のままずるずる後退。
 大勢を得るには力が足りず売上も低迷していきます(初期は結構売れたと思ったんですが...末期はちょっと厳しかった)。

 この当時ベーシックマスター16000シリーズというものも市場に出ているのですが、これはなんというか「違う」ものです。PC/AT互換の16bit機ですのでベーシックマスターシリーズの名を冠してはいますがだいぶ毛色が違う。私の中では「名前だけ」の機種です。とはいえこれがあったからこそ後のFLORAへとつながっていくので貴重な礎には違いないのですが。

 日立の8bit機は末期には「MSXパソコン」としてベーシックマスターの名を冠したものが出る始末(当然MSX互換であってベーシックマスター互換ではない)。まぁ日立のMSXパソコンということでそれなりに人気もあったんですが...(初期モデルはカーソルキーがともかく使いづらかった。後に後期出荷モデルではこれが改められたので私の周りのユーザーはぐぬぬぬぬとなってました。懐かしい思い出です)

 ベーシックマスターの血統はここに潰えたかに見えました。

 しかし日立は諦めていなかった!
 MB-H1(MSX)の発売の翌年。日立が満を持して送り込んだ刺客。

 8bitの最終形として送り出されたのが「S1」というパソコン。ベーシックマスターシリーズと言っていいのか微妙なラインなんですが日立の8bitホビーパソコンではあったので兄貴分と言ってもよかったかと。少なくともユーザーはS1をベーシックマスターの延長線上に見ていました。

 wikiでも一緒になっちゃってますしね(^^)

 互換性については誰も気にしてなかったというのがまた面白い。それほどパワーアップが凄まじかったし楽しかった。

 古い人なら「走るS1」といえば覚えている人もいるんじゃないでしょうか。
 馬の絵だか写真がカタログに載ってたんでインパクトは強かった。

 正式にはMB-S1。

 ある意味こいつもまた「8bit最終形」を名乗れる機種だったかと思います(SuperMZやX1turboZあるいはFM77AVなど最終形はいくつもありますが)。
 どこをもって8bit最終形とか究極形態と呼ぶかは人によって違うでしょうが、私はこのS1を「日本の6809搭載PCの究極形態」だったと思ってますので、その1点で最終形だと言いたい(笑)

 FM-7もいい機種でしたが、S1にはかないません。触った人は知ってるでしょうが、このS1はともかく「凄い」やつでした。凄すぎて突き抜けちゃってる感もあるぐらい。まぁ6809を覚えるならFM-7の方がいいとは思いますが。なんせS1は資料が少なすぎた...

 搭載メモリは「1M」!!

...当時の8bitといえば64kが普通。16bit機でも640Kなんて時代に1Mです。その時点で「なにをどうしたんだろう」という感じがしますが、SRAMを搭載して高速書き換え出来るようにしてあり...そのSRAMを書き換えて4K単位でメモリ内容を切り替えることが出来たと。

 ちょっと仕組みは違いますがページングっぽい仕組みだったかと思います。この時代に6809でこんな仕組みを実装していた時点で日立は暴走していると思う(笑)

 SRAMがまたいい感じに早かったのでアクロバティックな切替をすればかなり高速にメモリマップを切り替えまくって動作させることが出来たので(まるでぱらぱら漫画を見ているようにメモリ内部を書き換えながら動作させることが出来たという。実際にはいろいろ大変なんですが、やってやれないことはないのでプログラマーの腕がいろいろと見せられたかと)、変態的なプログラムを書くと他機種では出来ない動作をあっさりと実現できた記憶があります。一握りの人でしょうけれど...そこまでいじり倒していたのは。

 というか友人がやってました(笑)

 汎用機で培った技術というより日立らしいアクロバットな仕組みといえばらしい仕組みですが、残念ながら活かしきったソフトを見ることはなかった(少なくとも私は)ですし活かせるプログラマーも少なかったかと思います。

 それが災いしたのか...というかぶっちゃけ作り込んでS1にどっぷり浸らないとその性能が発揮出来ないわけで。市販ソフトにまったくもって恵まれず。ユーザーもマニアックな一部の人を除いてはよりつかず。
 ベーシックマスター以上に寂しい末期を経て...ひっそりとS1はその歴史の幕を下ろします。

 ...少なくとも表の歴史では(笑)
 裏の歴史では...この機種を愛した人達により改造方法が広まってパワーアップS1があちこちで誕生。HD63C09(この石自体が超マニアックなので知ってる人は少ないかも)を搭載したハイパーS1とでもいうべき存在があちこちで爆誕していたという。究極の6809パソコンは究極の魔改造パソコンの先駆けにもなっていたんですね(^^;
 HD63C09って何よ?と言われたら6809の互換品を作ってもいいよ(セカンドソース)と言われた日立が「よーしぼくのかんがえたさいきょうの6809にしちゃえ」と改造して世に送り出した6809互換の変態CPUです。
 これには6809を生み出したモトローラーが「ちょっとまて」とばかりに物言い。結局のところ市場に少数出回ったもののその仕様がよくわからないし使い道も微妙という相当にマニアックなCPUになってしまいました。(ユーザーが解析しないとCPUの全貌がわからなかったともいう)
 が。
 S1ユーザーはこのCPUの秘密を解き明かして共有(この時代はインターネットもないわけですからパソコン通信を介してですね...あとはユーザーコミュニティを中心に対面で広まったりも)します。そう。S1は最強の6809系互換CPUを手に入れることでさらにパワーアップしたわけです。
 ソフトがないなんてのは自分で作る人達にとっては大した障害になりませんから(^^)
 今でも当時のパワーユーザーがS1について語った記事をネット上をいくつも見ることが出来ます。一般受けはしませんでしたが、S1を愛した人達はたくさんいました。当時の力ある人達にとっては頼もしい相棒だったでしょう。
 なければ作る。作って足りなければ集って人数の力で押し通す。パソコン通信時代のパワーユーザー達は今の手ぬるいプログラマーと違って「まさに命を賭した」熱い人が多かったのを思い出します。
 それがよいかわるいかは別の問題として。

 時代がS1に合っていなかった。そういうことだったのでしょう。
 走るS1は時代を走り抜けて行き...人々の記憶から消えていきました。
 日立が生み出した8bit時代の先駆者。
 ベーシックマスターシリーズは一時とはいえ日本のパソコンを代表する地位に立ったのです。その晩年はMSXに名を残し...そして遅すぎた横綱S1へと昇華し...消えて行きました。

 日立のホビーPCの路線はなくなりましたが、PC市場に日立は存在感を示し続けます。

 後にB16(B16/32含む)というビジネス機でそれなりの市場を切り開いた日立はFLORAブランドを引っ提げてPC/AT市場へと切り込んで行きます。
 汎用機やオフコンではないスモールサーバー(今だとPCサーバーと言った方がわかりやすいでしょうか)を提唱したFLORAは注目を集めました。AXパソコンと呼ばれた国産PC/AT互換機の中にFLORAの姿があったのを私は覚えています。

 その後DOS/Vの登場と共に軸足をDOS/VとWindows3.1へと移してFLORAは成長を続けました。省スペースPCやスモールサーバーの先駆は日立ではなかったかと思います。
 初期は民生用もFLORAブランドで発売していましたが、後にPriusブランドに変更。液晶一体型PCなどを積極的に展開して存在感を示しました。

 Windows serverの登場がFLORAの魅力を押し上げていきWindows4.0からWindows2000の時代ぐらいまではPCサーバー市場でも(クライアントを含めて)結構様々な企業でその姿を見ることが出来ました。ただ...商売としては厳しかったようです。

 過剰なまでに頑丈。そしてしっかりしたパーツ保守の安心感。それはユーザーとしてはうれしいことですが販売企業としては赤字の温床。

 時代がWidowsXPの頃になると企業用FLORAブランドは日立オリジナルではなくなって行き...ついにはHP社との提携をもって一部の機種を除いて自社開発PCはPriusのみに。

 そのPriusも2007年に製造を終了し...日立のPCは終焉を迎えました。

 日立の...特にPCサーバーの品質の良さは私も驚くほどで、運送屋さんなど下町に納品されたFLORAサーバーは2012年現在でも稼働しているものがいくつもあったりします。(壊れても修理を受け付けてくれる会社がまだちゃんとある上に日立にも補修部品がまだ少しはあったりすることも。動作環境が劣悪なことを考えると驚異的です)

 私が頼まれてどこかの企業のPCやサーバートラブルを解決しに行くとき...そこにFLORAの姿を何度も見かけました。製造から8年ぐらいたっていてもまだ動いている。HDDは危ないもんですし電源だっていつまで持つか。

 そんな状況でもまだ活躍しているFLORA。日立の撤退後も生き続ける日立が残した血。
 PC市場からは姿を消した日立ですが、サーバーの分野では今でも一線で活躍する企業です。数々の製品が今も世の中のインフラをぶん回すために活躍しています。

 それら全ての日立のPCの礎となったのは。
 ベーシックマスターだったのではないか...
 私にはそう思えてなりません。

 少なくともS1で見せた日立という会社の姿勢と力は、企業用サーバーなどの中に溶け込んで...受け継がれているのだと思っています。堅牢にして優秀。他社とは違う血統。
 ビジネスシーンで今でも日立のサーバーを見るたびに。
 子供の頃憧れたベーシックマスターの姿が脳裏に浮かぶのです。


「ホビーパソコン」の終焉と共に消えていったかつての名機たち。
 今となっては思いでの彼方の名機たち。

 あまりマニアックなところには触れず今後も様々な機種を紹介していければと思います。


※余談「ベーシックマスターの名と日立という会社」

 時代の流れの中に消えていったホビーパソコン達。
 その中でも一際異彩を放ったベーシックマスター。そして日立という会社。
 時が流れてその血脈は途絶えてしまいました。

 しかし...受け継がれるものが今でもあると。日立の物づくりの魂は...コンピューターというものにかける情熱はいまだ熱い。少なくとも私はそう思っています。

 様々な会社の経理用サーバーがなぜか富士通と日立の決戦の場になってるのを見るたびに(私が出入りする会社では経理・総務用のシステムのサーバーはこの2社で争ってることが多い)、ちょっと胸が熱くなります。

 富士通は富士通で「ホビー機から汎用機...そしてスパコンまで全てを一社でやってのける」企業として稀有なのですが、その意地がたまに迷走を起こすこともあります。その点では日立はいつも実直に...堅牢さへのこだわりを持ち続ける企業としてブレがない。

 セキュリティにこだわったPCを日本で先駆けたのも日立だった気がします。

 あのチャンドラを世に送り出してくれたのも日立(他社からも出ましたが大手では日立だけだったと思います。うろ覚えですが。私が触ったのはエプソン版でしたが)。

 いつかまた。日立という会社はきっと子供達のために...何かを届けてくれる。そんな思いもあるのです。ここ数年いいニュースがなかった日立ですが...いつかまたやってくれる。そう思っています。

 私の出身地茨城を代表する企業でもありますしね(笑)まぁ実家ではニッセイとしか呼ばれませんけれど(「日立・製作所」の2文字をとって日製。地名と区別してるそうです)

 鉄道や情報システムなどインフラと名がつけば日立の名を外すことは出来ません。そんな日立だからこそ...いつか「モノづくりの楽しさ」を子供達に伝える商品を出してくれるんじゃないか。そんな風に思っています。

 ベーシックマスター。そう名付けられたパソコン。ベーシックを覚える。マスターする。その意味の先に、「基礎」「基本」をマスターするパソコンの意味もあったんじゃないかと。ベーシックは基礎・基本の意味もあるのですから。マスターしたその先に広がる未来があってもいいじゃないかと。

 基礎の先には応用があり...そこには子供達の未来を拓く夢があるんじゃないかと。

 当時の開発者達の思いはどうだったか今となってはわかりませんが...あの時代に場末の部署から生み出された日本初のマイコンはわずかな期間でしたが天下に名を響かせました。開発者達の夢が...気持ちがユーザーに届いたのだんだろうな...

 そんな風に私は思っています。
 物づくりにこだわり品質にこだわる日立なら。いつかはまたやってくれる。そう思いたいな...と。子供という名の次世代の...人間のインフラを成長させるのは日立の仕事なんじゃないか。そんな風に思っているので。
 有名な日立のCM「この木なんの木 気になる木」。
 その歌詞の一節を最後に。

「いつか葉がしげって 幹がおおきく育って
根をひろげて 森になる日が未来
その日をその日を みんなで待ちましょう
夢見て夢見て その日を待ちましょう」

 この歌詞は子供の成長と大きな木をかけてるのかな...と思っています。勝手にですけれど(笑)