ある時村にいたひとりの農家のじいさまが突然天啓でも受けたのか狂ったのかせんべいを作り始めた。
農家だった男はある日突然誰にも教わったことのないせんべいを作り始めたのだ。
道具も手作りして作り始めた。周りから見たらあまりにも奇妙な光景。
他の村民はバカにして相手にしなかった。
しかし毎日毎日せんべいを焼き続け地場の醬油の焼けるいい臭いがその家から立ちこめる。
あまりに美味しそうな香りにたまらず購入する者も出始めた。案外安かったのだという。
何を言われようと指を指されようとじいさまは毎日せんべいを焼いた。
美味しいと言われて村のおやつになるにはとてもとても時間がかかったがそれでも毎日せんべいを焼いて腕を磨いた。
村の片隅には毎日焼けるせんべいの香りが漂いあやつは気がふれてしまったのだと指も指された。けれど爺さまはまったく気にせずせんべいを焼いた。
毎日毎日。
ただひたすらにせんべいを焼いては天日干しを繰り返す。いつしかそれは風景となり日常となっていった。
爺さまの親族はそんなじいさまをバカにした。
それでもじいさまはせんべいを焼いた。
そして少しの年を経てせんべいは村民のおやつとして親しまれるようになった。
村の外へのみやげにもちょうどよかった。近隣の村でも評判となった。
味はよくなり村民にも喜ばれるようになった。じいさまは特に喜びもせず毎日せんべいを焼いた。
そうしているとバカにしていた親族がじいさまのせんべいの模倣をはじめた。
じいさまは作り方など教えなかったがそもそも焼いて天日干ししているだけのせんべいである。見よう見まねすればいい。じいさまのせんべいの現物がそこにあるのだ。醬油もわかる。
道具だって爺さま手作りのもので特に隠しもせず使っているのだ。模倣は出来た。
そしてあれほどにバカにしていた親族がこぞってせんべいを焼き始め村にはせんべい屋は3つも4つも出来たという。
「なんと強欲な親族だ」と村民は噂したがじいさまは気にしなかった。
毎日毎日いつものようにせんべいを焼き続けた。
そして娘婿にせんべいの焼き方を伝授した。
『ともかく天日干しが重要なのだ』
天気を見極めること、天に感謝することを伝えた。
親族のせんべい屋はそんなことも気にせずただ欲に任せてせんべいを模倣しさらに饅頭などを売り出した。
けれど人気は出ない。
模倣は模倣でしかなかった。
ある日村長がじいさまに怒らないのかと聞いたそうだがじいさまは「好きにすりゃいい」とにこりともせず。
いつものように難しい顔でたんたんと…ただ毎日せんべいを焼いた。
焼いて焼いてついにくたばってしまった。
親族は「うちが本家だ」「うちが元祖だ」と近隣の村々に触れ回った。
じいさまの娘婿はそれを見て心底あきれ果てた。
『もういい。じいさまの言う通りにしよう。天に感謝してせんべいを焼こう』
そして何十年か経って。戦争も終わり歴史はめぐり高度成長期へと時代は進んだ。
じいさまのせんべい屋はまだせんべいを焼き続けていた。
数店舗の店は全てじいさまの娘婿直系の店ばかり。
経営不振で潰れた親族の店を取り込んで(救済したのだと村の人達は噂したらしい。孫かひ孫かわからないが大変な人格者の跡継ぎがいたそうな)
饅頭や団子を売る店は別に作った。
(せんべいも少しはあるが明確にせんべい屋は別とした)
そして令和の今。
せんべい屋の本店はいまだに天日干しでせんべいを作り続けている。
新しくなったこぶりな本店を見る度にまだ存命の年寄り達は噂する。
「やはりじいさまはただしかったのだな」と。
難しい顔の爺さまの顔を思い出すという。
ただ村の年寄り達にもどうしてもわからないことがあった。
なんであの日あの時。
爺さまが突然畑からすっとんで自宅に戻ってせんべいを焼き始めたのかということと、その基本の製法をどこで学んだんだ?という。
それだけはじいさまが死んでしまって永遠の謎となった。
ただの農民がある日突然狂ったようにせんべいを焼き始めた。
毎日毎日試行錯誤し工夫し天の恵みに感謝し天日干しにこだわり手作りにこだわり…
そしてそれが安くて素朴で…
時間をかけて人々に愛されていった。
それはなんでなんだろうと。
母が子供の頃にはまだ存命だったというそのじいさま。
いったい何があったのかとても気になるが…
今そのせんべい屋のHPにはもっと奇麗でそれっぽい由来しか書いていない。
果たして真実はどっちなんだろうか…
私の親族が全員嘘つきでない限りは…
もはや私のじーさまもばーさまも天に上り母の兄(おじさん)も天に召された。
歴史を知る人達はもう少なく村から市になったあそこにはもう伝える人も少ないだろう。
私も母が若い頃に聞いて気になり。当時存命だった親族に聞いた話なので当時そのように言われていたという話でしかない。
当のせんべい屋がそれを伝えていないということは公式ではないのだろう。
でもなんか…子供の頃に聞いたこの話が頭に残っている。不思議な…そして素敵な話として。
また実家を訪ねた時は足を伸ばしてあのせんべいを買って帰ろう。そう思うのだ。
あったこともないじいさまに想いを馳せて。
