先日、児童ポルノ法と呼ばれる法案についていろいろと論議がありました。
漫画やアニメは含めるべきだのというくだらない論点をぐだぐだと引っ張りつつ、ようやくまとまろうとしていますが、問題もはらんだままです。
他の法にしても「為政者の解釈ひとつでいかようにでも出来る」法案ばかり。
なぜこうなってしまうんだか。
そう思っていた矢先に古いデータの中から昔自分が書いた文章が出てきました。
今から30年前。まさに中学生高校生の頃に私が無想した「法律を作る側の理屈」という文章。
生意気で斜めに構えていて、政治と立法と警察に不信を抱いていたあの頃の自分。それが生の感情を綴っていた文章。
それを元に少し手直してみました。それが今回の記事になります。
※さすがに子供が書いた文章は直球すぎてひどいものだったので内容を損なわない様に修正をいれています。
また当時の事件、犯人、何があったちのか警察官の個人名なども原文にはありましたが排除して再構築しています。
特に面白い話でもオチがある訳でもなく当時の子供が思い描いた稚拙な話を振り返って、今の世の中と比べたら...という話です。取り方は人によって違うでしょうが、不快に感じられましたらどうぞ読まずにページを閉じてください。
それでもよいという方のみこの先をお読みください。
警察も立法機関も犯人を「捜し出す」ことは出来ない。
「見つけて」逮捕するしか出来ない。
善意の元でないと見つけることも出来ない。
本当に悪いやつを捕まえても犯罪は1つしか片付かない。
どうでもいい犯罪の犯罪者を捕まえてもやはり犯罪は1つしか片付かない。
そして...新たに犯罪を「作り出して」犯人を「見つけて」逮捕しても...犯罪は1つ片付く。
そう。
簡単な話。
新たな罪を作って、今までなんの罪もなかった人を「犯人」にして捕まえてしまえばいい。
数字のゲームではないけれど、犯罪件数に対しての検挙率はそれだけで水増し出来る。
友達の親父の言葉が耳に残って離れない。
県警を引退したばかりだって言っていた。だいぶ偉い人だって聞いた。
「警察の仕事っていうのはなかなか『片付かない』んだよ。
どんな罪でも人が犯す以上は犯人がいる。
その犯人を捕まえて検挙して検察に送る。それではじめて『片付く』んだ。
だから犯人が死んでいても構わないから検察に書類を送る。
それで始めて1つ片付くんだ」
酔った上での言葉だったけど。
深く心に残った。
「片付かない」
その表現がとても不適切で、でもものすごくしっくりくる言葉。
片付かなければ警察はいつまでも捜査しなければいけないし、その犯罪に関わっていかないといけない。
限りある人的リソースを裂かねばならない。
けれど片付けばそれは「実績」となって、捜査に関わった人達の「評価」に繋がる。
出世も出来るかもしれないし、昇級もあるかもしれない。
仕事として犯罪に立ち向かう以上はそれは当然のことで、そこには違和感は感じない。不思議としっくりくる。
けれど、片付けるのが目的になってしまっていたら。それはちっともしっくりこない。
罪を憎むとかそういうものではなく。
たくさんある仕事を片付けていくだけの感覚。ともかく自分達の手元から離してしまいたい。
それはなんかおかしい。
現場で捜査している人ではないもっと上の人の言葉だし、それはそういうものとして受け止めればよかったかもしれないけれど。なんとも違和感があった。
警察の捜査について考えてみよう。
刑事ドラマのようにはいかないだろう。
ではどうやって犯人を捕まえているのか?
TVや新聞の発表をあさってみよう。
図書委員だしちょうどいい。
放課後に図書室にある本をあさってみたけど、どうにも資料が少ない。図書館をあちこち巡って古い新聞なども漁り続けた。
(注インターネットなどない時代でした)
古新聞やいろいろな犯罪の本などを読んでわかったこと。
日本の警察は「日本人の良識」に頼っている。
ともかく、自白を優先する。
なぜなら証拠がなくても自白してくれればそれが「犯人」であり「片付く」から。
捜査とはいうけど科学的な裏付けのある捜査や、犯人の心理を追うような話はなくて。
アメリカなんかのドラマみたいな話はどこにもなくて。
捜査というものの決め手は常に「通報」か「市民からの連絡」ばかり。
誰かが「あそこに怪しい人が」とか「犯人の特徴に一致する人が」と通報しないと始まらない。
犯罪を犯した人間が悔いて白状する「良識・良心」。
発表された特徴やあるいは当人の行動などからあの人が犯人ではないかと通報する「良識・良心」。
実際に逮捕に結びついているのはどうも「良識に基づいた日本人らしい行動」ばかり。
それにくっつくようにちょこっとだけ科学が付随する。交通事故とかだと大活躍だけど。
再犯者でなければ指紋とかだって役には立ってないだ。
心理学を応用した話とか聞いたことないし。
担当警官の推理や思い込みに頼るしかない。
だとしたら。
もし通報がなかったら。
もし犯人が自白しなかったら。
容易に捜査は長期化する。
それでは実績も積めないし逮捕出来ない事件ばかりになってしまう。
ではどうしたらいいか。
答えは簡単だ。
いまそこにいる人を犯人にしてしまえばいい。
その人がしていることを「犯罪」にしてしまえば、探さなくてもそこに「見つけられる」。
それを逮捕すれば「ひとつ事件が片付く」。
凶悪事件はなかなか片付かない。
けれどそうして好きな時に好きなだけ犯人を捕まえられれば、事件の総数における逮捕率はあがる。
人は警察を無能とは言わないだろう。
それも出来れば弱いやつを犯人に出来ればいい。
まわりから見て「ちょっと外れている」やつがいい。
それならば大多数の人々は文句を言わない。
日本は良識と良心とで結ばれた排他的な人の集まりだ。
学校もそうだったし。
だったら。
その集まりに「入れなかったやつ」を捕まえればいい。
日常の中でそうした者達が犯罪に近い行為をすることはたしかに多い...と報道されている。ならばそれを利用すればいいじゃないか。
みんなが犯罪をしそうだと思っている「イメージ」に乗っかって、既存の法を「解釈」して好きな時に逮捕出来れば。
それが個人の...政治家や偉い人の思い込みでも、それがみんなのイメージに乗っかってさえいればそう大きな問題にならない。
「これはいやらしい」とか「これは規制されるべきだ」とか叫んで法律さえ作っちゃえば後はどうにでもなる。
規制を強める「どうとでも取れる法案」をいっぱい作れば後はもう好きな時に好きなように犯人を「見つけられる」。
誰かの通報もいらない。
自白もいらない。
証拠もいらない。
「犯人」が今持ってるものやすでにした行動などを後から「証拠」と「解釈」すればいいのだから。
政治家の汚職事件などがあれば、さも凶悪そうな世間の耳目を集める犯人を「見つけ出せ」ばいい。
危ない橋を渡るより安全で無害で凶悪な犯人の法に報道は集中するし。
そうしたことにも便利に使える。とっても便利で大事な大事な法律をたくさん作ればいい。
気の弱いやつなら警官が「おいこら」といえば萎縮しちゃう。俺だって固まっちゃう。
多少反論しても世間は「お巡りさん」と「おどおどした弱いやつ」を比べてどちらを信用するだろうか。
これからずっと未来はたぶんこんな法律ばかりになっていくだろう。
どうせ罪の意識に怯えた「自白」や「善意の第三者による通報」がなければ犯人を捕まえることなど出来ないだろうし。
ずっとずっとそれは変わらない気がする。
根拠のない「刑事のカン」やなんの根拠もない思い込みでえん罪事件が増えるだろう。
だってそうしないと「片付かない」んだから。
長生きしたくないな。
いつ「こないだお前が買ったものは法律に違反している」と後出しじゃんけんみたいなことされるかわからないし。
みんなと同じようにはどうも出来そうにないし。
ちょっとみんなから外れたら「犯罪者」にするのにちょうどいいやつになっちゃうんだろうな。
未来はどうなっているかな。
たぶんダメだろうな。
以上が当時書いた文章を手直ししたもの。
へたくそながらにいろいろ思うところがあって書いた文章で。
30年前に考えた幼稚な「法律や警察、為政者への不信」。
けれどふと今...あの時から見た未来である「今」、現実を見てみると。
どうなったかといえば。
一方的な思い込みによる文章ですが、今読んでも自分自身でなんか「来る」ものがあります。
世の中今でも荒れ放題。
ニュースにのぼる法律も基準が曖昧なものばかり。
...今の世の中、あるいは当時思い描いた「最悪」より尚悪いことになってるかもしれません。