「老いとは寛容さを失うことだ。若かろうが寛容さを失ったものは精神的にすでに老いているんだ」...今も生きる先人の言葉

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人に優しくなくなることがいることだと私に諭した人はもう亡くなった。
私が反論として優しい人もいると言ったら
「そいつはまだいてない。ちゃんと遇しなさい」
と言われた。
では若くして狭量なやつはどうなんだと聞いたら、「そいつはすでに老いている。もう成長もしないだろう。先もない。そのまま狭い世界、狭い視野のまま死んで行くのだ」
と言われた。
今もその教えは生きている。
年を取るということは「寛容さ」を失うことだとその人は言った。
生まれてからの年輪ではない。老いて行くというのは狭量になり他人より自分を優先するようになって行くことなのだと。
そうなりたくないから、自分はいつまでも他人との関わり合いを大事にするし頼られる人でいたいと笑っていた。
もうその人は亡くなってしまったが、葬儀も通夜もたくさんの人が来ていた。たくさんの人があの人の死を悼んでいた。
「若々しい人だった」
みんなそう言っていた。私もそう思っていた。
けれど享年は88才だった。そうはまったく見えなかったが、よく考えてみれば腰は相応に曲がっていたし肌のしわもなかなかにすごかった。
あの人の若々しさは態度だったし話し方だったし...なにより他人への接し方だった。
差別せず。
馬鹿にせず。
ただひたすらに相手のことを理解しようとし、自分でしっかりと考えた言葉を返すようにしていた。
どんな相手であろうともそれは変わらなかった。
寛容であったのは間違いない。怒る時は烈火の如くだったが、普段は本当に優しい人であった。

今もその教えは私の中に息づいている。

他人に寛容であれ。
他人に優しくあれ。
若い人の言うことだろうと馬鹿にせず真摯に聞くこと。
老いた人の言うことだろうと誠実に聞くこと。
人に話す言葉は自分の中で練り上げた「他人の言葉を借りずに紡いだ自分の言葉」であること。
老いが見えてるくる年代にあって。
あの人の言葉が妙に腹の中に居続けている。
聞いた時は「何言ってんだこの人は」と思った。正直に言えば。
けれど今になって。
ああ、そういうことだったのかと実感出来てきた。
いつまでも若くいることは出来ない。けれど、老いるのと老人になるのは違うのだと。年をとってもまだ出来ることはあるんだなと。
先人の教えが今頃になって胸を締め付けてくる。
いつまで守れるかわからないけれど。
この教えにプラスして。
他人の生き様を笑わず。
他人の趣味を馬鹿にせず。
この2つの言葉を自分の言葉として上乗せして。
今後を生きようと思った今年の正月。
半月経ってなるほどこれは難しいと思いつつも。まだまだ継続中。

あの人の言葉が正しいのかどうかわからないけれど私はとても共感出来た。
あなたは老いていないだろうか。実年齢以上に。
寛容であるとは優しいという意味ではなく。無条件に受け入れるという意味でもないとあの人は言っていた。

「自分の中に入れて納得する。そういうことだ。否定から入っちゃだめだよ。まず受け入れて、それが自分の中で腑に落ちればいいんだ。そうでないなら距離を置くのもひとつの寛容さだよ。自分とは異なるものをどうやって受け入れるか。それが寛容ってことだよ」

その言葉は難解で、理解したつもりでも実践はなかなかに難しい。
それは海外から日本に来ている人相手でも。性差別で苦しむ人相手でも。マイノリティな趣味で他人の理解をなかなか得られない人相手でも変わらない。
どう受け入れて自分のものとするか。どう付き合っていくのか。完全な理解は出来なくてもどうやって否定しない自分を見いだすか。
反論すべきところは反論し、否定すべきと思うところは否定するだろう。それでもまず否定から入るようなことはしたくないと思う。

これが出来なくなった時が私の老いの始まり。
精神が老人となるということ。
肉体はまぁしょうがない。加齢と共に衰える。それはいい。
せめて心だけでも。あの人から教えてもらった面白い考えを活かして。
やって行きたいもの。

あなたの心は静かに老いてはいないだろうか。わかいつもりで...人を否定し続けてはいないだろうか。
肯定しろということではなく、どうやって受け入れていくか。寛容の心。心の老い。
今一度考え見て欲しい言葉かなと思って記事にしました。

正解のない...少し前に死んでしまった人の残したたわいのない言葉ですが、私の心には妙に強く残っています。