徳を積み運を掴め! 他社が真似出来ない企業を作り上げた男...矢野博丈とダイソーの話

Twitterでダイソー創業者矢野博丈さんのことをつぶやいたら妙にバズったりしていたので、もう少し細かくしたものをブログ記事にしてみました。

100均の草分け。100均業界の覇者。いろいろ言われるダイソー。
「そこになければありませんね」などとくすっとする迷言?も有名だが取扱品目が多すぎるのも確か。
ただそこまでくるからには「普通じゃない」企業だったし「普通じゃない創業者」の「普通じゃない戦い」があって今日がある。
ダイソーは他社とまったく違う経緯であそこまでになったと創業社長矢野さんはおっしゃっている。

「専門家なんていらなかった。ただがむしゃらに頑張る。考える。いいものを安く出す。それだけだった」

ほとんど表に出ないがインタビューは基本「ネガティヴなことしか言わない」社長で有名。

その語録をまとめるとこんな感じになる。

「こんなに大きくなると思わなかった」

「部下が勝手に大きくしてしまった」

「もう会社のことはわからない。何売ってるんですかうち?」

「ダイソーよりセリアの方が店も品揃えもいいのでは。負けたと思っている」

「実は数年前までダイソーはつぶれると確信していたんです」

「銀行の頭取さん(主幹銀行のみずほ銀行の頭取さん)と飯喰っていつうちもつぶれるかわからないんでご迷惑かけたらすいませんと言っておきました」

「新しい店舗はもう社員任せですよ。私にはこんな店作れません。いいんじゃないんですか。部下がやるっていうんだから。私には出来ないんだし」

「自分の事業が成功か失敗かは倒産するまでわからない。だから今はまったくわかってないですね」

「息子に継がせる気はまったくなかった。なかったんだけど後継者育成がうまく出来なかった。息子に助けてもらうことになるとはなぁ...」

「そりゃあいいものを安く売ってるんだから儲からないですよ。なんで儲かってるのか自分でも途中でわからなくなってしまった。でも売れてるからがむしゃらに商売をしてきた」

「お客様のことはようわからんのです。わかんないからわかんないなりに付き合ってきました」

これである。

基本的にはポジティヴな発言は「部下が優秀」「社員が素晴らしい」ぐらい。
でもこれもどこか後ろ向きで「自分はそれほど優秀ではないから」という枕詞がつく。
その割りには現場で激昂することもある。
ネガティヴなパワーを前に噴射して戦って来た。そんなエピソード満載な方で講演などでもそのようなことを言っている。キーワードは「感謝」と「徳」。
この二つが社員を誇る言葉につながっているのかもしれない。

もともとダイソーを作る前は事業をやっては失敗し失敗しもはやどうにもならん...というところでバッタ屋をはじめたという。

そもそもは開業医の息子(8男兄弟の5男坊)であり父親は人気のある医者ではあったがともかく貧乏でしたと語られている。
もっと詳しく言えば「大地主の祖父、母は銀行家の娘。父は開業医」なのでどう考えてもエリートの金持ちなのだが子だくさんであり開業医と言っても当時はそこまで稼げない。
ただこの両親の姿が矢野社長のアイディアのキーになっている。キーワードは「見栄っ張り」見栄をはるから貧乏だ。
だけど逆に言えば「価格が100円でもいいものを売れば客は買う」のだと。
ある時客から「安物買いの銭失い」と言われたことがあったそうだ。
その時「なんだと。じゃあ価格以上の商品にすればいいんだな!」と思ったと。
普通はそう思わない。思わないんだけど矢野さんは思った。
親が見栄っ張りだったからこそその遺伝子を活かしてやろうと。
「100万の車は高級とは言えない。けれど100万の家具は高級品だ。私は100円で高級品を売っている。親から受け継いだ見栄っ張りの遺伝子がそうさせてくれている。今では感謝していますよ」


※あちこちで似たようなこと言われているのでネットにないかなと思ったら記事がありました。

成功したきっかけなんてない がむしゃらに働いただけ
https://toyokeizai.net/articles/-/266972


「起業というと格好はいいが他に何も出来なかった。能力が低かったから。だから真面目にこつこつやって食えればいいと思ってずーっとやってきた」

そもそもが学生結婚してしまって貧乏を煮つめたような状態に自ら追い込んでしまったそうで仕方なく食べるために親族(妻の実家)からハマチ養殖業を継いだと。もう他にやりようもなかったから飛びついちゃった。だけど3年で立ちゆかなくなって夜逃げ同然で逃げ出すことになってしまう。
この学生結婚のエピソードも相当面白いらしいのだが本人はあまり語りたがらない。ただ自分の名前がとことん嫌だったので妻の名字に改名するだけではなく名前まで変えてしまっている。(もともとは栗原家の五男坊で五郎さんだった。よほど嫌だったらしい。結婚を気に逃げるように実家から遠ざかったと)
妻の実家から受け継いだ養殖業はつぶしてしまう。転職をしてもしても何をやってもうまくいかない。セールスをやればブービー(30人いたら27位ぐらいは取れるとのこと)。トークはうまくない。愛想もよくない。何をやってもダメだったと。
本のセールスをやったけどうまく行かなかったなぁと言ってるので本当にいろいろな商売をやっては失敗しまくった。


「結局は運ですよ。運が上がるような勉強をした方がいい。学生は勉強が本分、だけど社会に出たら人同士の支え合い。人を支えるものは運です。運はいいことの積み重ねから出てくる」

学校での講演でもこのようなことを言っているのもこの時代の苦労と再起動してからの馬力を見れば実感から来ている言葉なんだなと。

なおこのハマチ養殖業で負った借金は東京でちり紙交換の仕事をしている時に必死に貯めて完済しているとのことでどうも「逃げたとしても借りはしっかり返さないといけない」というのは貫徹している考えらしい。
借金はこれをどこまでも返済することで信用にしていくものというが自虐する言葉の節々にそうした「信用を築いてきた」考えや行動が見え隠れする。
ただおだやかに見えて気性は荒かったようでそれが商売がうまく行かない理由のひとつだったのではないかとも。
ともかく転職に次ぐ転職を繰り返し(その回数は8回とも9回とも。実際はもっとだったかなぁとおっしゃる)奥さんと二人三脚でひたすらに働いては爪に火を灯していく。
当たったのがちり紙交換でこれで借金を返済しきった。


この辺りで100均の前身である均一商売の店に弟子入り。
ここでノウハウを掴んだ...わけではないらしく。それでも「商売の基本」はここで見たと。
100均は当時なかったけれど均一商売というものは世にあった。
100円、200円、300円とそれぞれ場所をわけて「ここにあるものは100円。こっちが200円」といった売り方で路上にものを広げて売ったり催事場を借りての商売があった。矢野さんが飛び込んだのはまさにそうした商売だったのだろう。

もともと均一商売なので100円の商品もあったのだがともかく忙しく値札も貼ってられない。ある時客に「これはいくら?」と聞かれた矢野さんは頭も回ってないし面倒なので(もう値札のラベルすら貼れないほどの忙しかったらしい)「100円だ!全部100円だよ!」と叫んだ。
その後ももう値札(当時はラベラーで一個一個作っては貼りする必要があった)を貼るのもやめてしまって「もう全部100円!ここにあるものは100円だよ!」となってしまう。
これが「100円ショップ」の産声だった。
綿密な計画があったわけでもなく。
何かすごい基準があったわけでもない。
均一商売で一番安い価格が100円だったから。ただそれだけだった。

「やってられん」
となって
「全部100円だ!」
としたのが100均の基本だった。
これはインタビューでそう言ってもいる。
忙しくて値札なんていちいち貼ってられない。
だから全部同じ価格でいいじゃないかと。
200円でも300円でもいいが100円だと。
それなら手間もかからないし会計も楽だ!と。
コストカットと手間をはぶくという最初の創業精神みたいなものがここで出来ていた。
100円で高級品を売ってやる。
100円で150円、200円、300円の価値があるものを売ってやればいいのだ。
その思いで商品を仕入れ販売し続けた。


この頃には一緒にやっていた仲間などもオイルショックの影響か次々と廃業していたが矢野さんは夫婦で必死に働いていたので「廃業する暇がない」状態だったとのこと。
しゃかりきになって働いて毎日あちこちに出向いては商品を売る。仕入れる。整理も間に合わない在庫管理もろくに出来ない。だけど売らないといけない。
そんな毎日をしているうちについには自分ぐらいしかいなくなっていた。
のれんわけの形で「大創産業」として法人化。時に1977年。
別に経営者になりたいわけでもなく。何かの志があったわけでもない。
ただひたすらに生きて行くために働いて働いて働き続けていたらいつの間にか山をひとつ登っていた。そういうことだったと。

この法人化の前後あたりに客に言われた「安物買いの銭失い」の言葉がよほど悔しかったのか商品力を高め(たとえ原価が90円であろうと仕入れていたという)それを売って売って売りまくった。

おりしも高度成長期の中で伸びて行く企業があった。
「ダイエー」
当時は飛ぶ鳥を落とす勢いの会社であり矢野さんはこれに寄生するように(おんぶにだっこ。伸びる木に捕まるなど表現は多々あれどだいたい同じことをおっしゃる)うまいことやった。まさに「運を掴んだ」時期だった。

しかし人生はそううまくいくものではなかった。
人と人の繋がりを説く矢野さんだがその繋がりが断たれてしまう出来事が起きる。
ダイエーオーナー中内さんからの呼び出しであった。

「矢野さん...悪いんだけど催事場であんたんとこの商品やる(扱う)と店が汚くなると言われてて...申し訳ないんだけどさ」

取扱中止の宣告だった。
大創産業の商品の実に5-7割をダイエーの催事場での販売に頼っていた。
この頃の中内さんに逆らうなど無理も無理。天下人に逆らうも同然だった。
矢野社長は再び崖っぷちに立たされた。

矢野社長はこんなエピソードをインタビューで答えたことがある。
「専門家が欲しくなることがある。経営者はね...商売がうまく行き始めると専門家を呼んで頼りたくなるんだ。だけどそれは間違いなんだよ。結局商売は自分で考えてやるしかないんだ」

これには理由がある。

【100均】ダイソー創業者 矢野博丈の商売道CD・DVD【日本経営合理化協会】

この動画でも答えているが倉庫をずーっとやってきてある時専門家を二人雇ったのだそうだ。
一人は倉庫長、一人はコンテナ手配に配置した。
最新の設備を使っても毎日夜の11時12時になっていた。
ところが。
この二人が揃って辞めてしまう。
仕方ないので矢野さんは自分でやることにした。
機械音痴で最新の設備と言われてもさっぱりわからない。わからないけどやるしかない。するとどうだろうか。
10日もすると倉庫は18:30分には仕事が終わるようになった。
コンテナ手配は前任者が辞めた後矢野社長が仕切ることで300万の利益が出るようになった。
プロを目指したい。プロを雇いたい。そう考えるがそれは間違いなんだ。自分でこつこつやるしかない。
そう結論づけた。

このダイエーからの通告に対しても矢野社長は自分で立ち向かうことにした。
ただひたすらに考えて考えて。トイレでも考える。風呂でも考える。
ただでさえヘビースモーカーだったのについには1日4箱のタバコを吸いながらいらいらいらいらしていたそうである。
先に貼った東洋経済のインタビューでも答えてる。あさ4時まで眠れず6時には目が覚める。2時間も寝ていない。でも仕方なく会社に行く。それでも眠れない。
一種のノイローゼ状態だったと。
もう死のう。会社が潰れたら死のう。そう考える日々。
ゴルフ場にいけば「あの枝はいいな...あれで首を吊るか...」などネガティヴな考えしか浮かばない。
昔会社が小さい頃ならば。社員が少ない頃ならば。
つぶしてしまって妻とどっかで住み込みで働けばいいやと開き直れた。
しかしもう会社はそんな規模ではない。
社員の命が。
生活が。
矢野さんの肩に重くのしかかった。

だが。

ふと思いついたそうである。
「ダイエーの客は大創産業の商品を喜んで買ってくれていた。商品は魅力があるのだ。ではどこで売ればいいか」
客に注目した。お客様の考えなんてわかりはしない。だけど忙しい日々の中で売れに売れる自社商品。そして我先にと籠に商品をいれる人々。
「ダイエーの中がだめなら...外で買ってもらえばいいのでは...」
ダイエーまでの導線。駅やバス停から歩く人々を目で追った。
いけるのではないか。
まずは試しとダイエーに向かう通りに店舗を出すことにした。
これが後々「ダイソー1号店」と呼ばれる店舗になる。
日本初の100均ショップが産声を上げた。
客は流れるように大創産業の店に入り商品を買って帰った。
ダイエーの行き帰り。催事場でなくとも商品が売れる。
希望が見えて来た。
いいものを安く出せば売れるのだ。薄利多売はいける。
巨大企業ダイソーの産声が上がった。


ドラマや漫画ならここから快進撃だろう。


だが現実はそうではなかった。
苦労は続いた。実店舗を運営するというのは催事場を借りて運用するのとは何もかも違っていた。
矢野社長はこの固定店舗で経験とノウハウを積みながら店舗の増やし方などを試して行く。

「やりましょう」
部下が言った。
チェーン展開。今までやったこともない領域。
だが
「やるか」
と矢野さんは決断する。
実店舗を持つことで得た知見。ノウハウ。大きくなった会社、そして部下達。
それを結集することで今まで挑んだことのない世界へ打って出ることになる。
もう一人でやっている小さい店ではなかった。
死んで終わり。そういう世界ではなくなっていた。

最初の固定店舗開店...ダイエーから切り捨てられた時からしばしの時間が流れていた。

雌伏の時を経て髙松に直営店を出店。
「100円ショップダイソー」
快進撃が始まった。

おりしもバブルがはじけて世間は「お買得」に注目が集まりつつあった。
風が吹いていた。まさに「徳を積んで運を掴む」。
勢いは止まらなくなった。
他社も市場に流れ込み日本が誇る「100円ショップ」の市場が形成されていった。

当然マスコミも取材を申し込むのだが...ともかく矢野さん表に出てこない。
出来れば広報、部長あたりで逃げてしまう。
ようやく出てくれば冒頭のネガティブ発言ばかり。
本人は
「椅子に座ってるだけ。部下が優秀だからみーんなやってくれる」
とか椅子にちょこんと座っておどけて見せる。
そんな訳はない。
本来は気性の荒い方らしいので怒鳴る時は怒鳴る。怖い時もあるという。
部下が優秀だったのは本当なようで独立した人や同業他社に行った人など様々だが...それでもダイソーはいまだにトップを走り続けている。


根本にあるのは客が言った一言。
「安物買いの銭失い」

これだけは許せなかった。絶対に「得をした」と思わせてやる。その一念で走り続けた。
大企業病になったダイソーを見て嘆く。「会議ばっかりうまいやつが出世しちゃあだめだよ」と。会議ばっかりしたって物は売れないんだと。
でもそこはままならないようでインタビューでもひたすら嘆いていた時期がある。

「企業として生きのこるには社会貢献しかない。どれだけ徳を積めるか。それしかないんだ」

学生達に言う。「今は勉強をしなさい。そして卒業したら運を掴むようにしなさい」と。
人と人との関わり、仕事というのは運が左右する。人と繋がりなさい。支え合いなさいと説く。
「徳を積んで運を掴め」

まさに社会貢献をして企業として徳を積んで生きのこるのだ!を体現した言葉だと思う。
インタビューや講演などではわりとおどけた話し方をするが、同級生などからは「本当はもっとおしゃべりだよ。恥ずかしいんじゃないかな」などと言われる。
どうも本来は広島弁が出やすいようで絶好調になると「じぇけぇ」とか「けぇの」とか混じり出す。そうなったら本調子だ。本音トークが聞けてると思っていい。

商売の根幹はイトーヨーカドーの創業者伊藤雅俊さんから学んだという。
「どこまでも経営者が持つべき謙虚さは必死であり続けること。大企業であろうとそれは変わらない」

これがあるから社内でも怒鳴るし叱るようになったのだという。その代わり部下の言うことも聞くし話には乗る。いけるような話なら任せてみる。だめなら自分でなんとかする。
そうしてダイソーは巨大な市場を制する企業へと登っていったのだろう。

現在ダイソーの品目はオリジナル商品だけで10万以上と言われる。
自社商品だけでだ。
店員として働くとなると商品多すぎてわかんなくなる。
そりゃあ
「そこになければありませんね」
としか言いようがない。
商品、年中新しくなったり販売中止になったりしてるからふつーにわからんらしい。そりゃそうだよな。いつも在庫聞いてすいませんとなってしまった。

現在は勇退し次男の靖二さんにダイソーを継承して会長職である。
それだからか精力的に表に出て...出て?あまり出てないかもしれないが講演などは行うようになってきている。
最期にも動画を貼るが大学などにも出ては講演している。やっぱりネガティヴな発言てんこ盛りだったりするが一聴に値する面白いものばかりだ。
この息子への事業継承も余談ながら面白い。

「家族には継がさないぞ!お前ら好きにしろ!」
「「わかった!」」
と長男次男はそれぞれ好きな道を選べ!会社はやらん!みたいな話だったそうで実際に長男は奈良県立医科大学で教授などされている。
で次男はというと...バイト大好き!現場大好き!だったらしく高校の時からダイソーでバイト三昧。
「会社はあげないよ?」「知ってる」
大学に入るとダイソーは空前の人手不足。出店に次ぐ出店。現場で矢野さんの怒号が飛んで後から矢野さん自身からお詫びがきたりしたこともあったそうな。怒鳴ってごめんみたいな。それほどに忙しかった。でも任せた部分がうまく行くと全社に見せびらかしたがる。そんな日々。
そんな時せっかく入った大学を「休学しまーす」と1年間ダイソーでバイト。
「いや、だからダイソーはあげないよ?」「いやたんに現場で働くの好きなの」「そ、そう...」「そう」
という有様で。
それでもホントに継ぐ気はなく卒業後広島や九州ではみんなが知ってるイズミに就職。元から取引もある企業相手で経営者同士つながりもあってにっこりな就職だった。
そして時は流れて...

「年喰ったわ...身体動かないわ...もう無理?」
矢野さんついに後継者を探すことに。しかし...育成は失敗していた。
というより自分が最前線でバリバリやってたので育ててなかったというか。
ここに来て進退窮まった矢野さんが参考にしたのはファーストリテイリングの柳井社長やニトリの似鳥社長だったという。インタビューでも度々言及されている。
「あの人達も絶対親族には継がせないと固い意志でやってたが最終的には息子に入ってもらっている。...ありなのでは...」

この時靖二さんはすでにイズミで20年を勤め上げバイヤーとして最前線で16年。ばりばりにやってる頃である。
とりあえず相談(威圧あるいはOHANASHIだったらしいが)してみるとまぁ入ってくれるという。(インタビューによれば実際は靖二さんから言い出したとも。まぁ言い分は親子で違うのかもしれない)
だが心配は募る。
「創業者の息子が入るとか普通に反発されないか?俺なら反発する」
「うまくやっていけないのではないか...」
親としてそこは心配だったらしい。
ところが。
「徳を積む」のは息子の靖二さんもやっていたのである。
学生自体からずーっとダイソーでアルバイトをしてきた靖二さん。
その時の仲間や店長はその時どうなっていたか。
古くからの社員からしたら「戦友」が帰って来ただけだったのである。
「なんだよお前も来たのか。じゃあ一緒に戦おうぜ」
苦楽を共にして苦しい時期のダイソーで働いていた頼もしいヤツが帰って来た。そう受け止められていた。
それを見て「あ、これいけるわ。俺引退できるわ」と。
2018年3月。長い長い在籍期間を経て矢野さんは社長職を退いた。
このイズミに20年いたという経験がダイソーとダイソー社員を救う一手となっているのも面白い。
ダイソーのシステムはそれまで矢野さんが手探りで構築してきたシステムで、システム自体は優れたものだったが(なんせAmazonが参考にしたいと言うほどだ)IT化が立ち後れていた。
矢野さんのネガティブ発言によくある「私は機会音痴なもので」がずーっと足を引っぱっていたのである。旧いシステムを人力でぶん回していたのだがすでに限界を超えていた。
そこに靖二さんが入社。いきなりのダメだしをしたという。
「親父、こんな旧いの(システム)を使っていたらダメだ。ダイソーは終わる」
創業社長にもの申せる社員なんて少ない。はずなんだがここにもの申しまくれる人材が爆誕していた。
「だめ?」「だめだめ」という会話があったかはわからないが矢野さん「もったいないなぁ...今まわってるのに...」と思いつつも次期社長が言うんだしと思い切って投資することに。数十億かけてシステムを入れ替えることに。

これが今日のダイソーの躍進につながっている。
10万種以上の商品を日本中、世界中に届ける物流、在庫管理など全てが効率化されていった。最近導入が進んでいる無人レジや電子決済もここでのシステム刷新がなかったら出来なかったか全て人力で対処せざるを得なかったか。
イズミで培ったノウハウ、得にコンピューターシステムへの知見がダイソーをさらに飛躍させた。
「俺だったらもったいないって言って絶対やらなかった」
矢野さんはそう言っている。

目立たない靖二社長だが写真を見ると父親そっくりの風貌であり...もう少し柔らかい話し方をされる。イズミで鍛え上げられた何かが新しい社長をより優しく厳しい存在へと昇華している。

100円業界はデフレの申し子と言う。だがダイソーの場合デフレはチャンスだったかもしれないがそれ以上に「お得感」を前面に押し出して台頭してきた。
「安物買いの銭失いとは言わせない」
「社会に貢献しなければ生き残れない」
「得を積め」
「運をつかみ取る仕事をしなさい」

昭和のど根性と言う。苦労して苦労して努力して努力して最後に虹を掴む。
そんな話はもう過去のものだと言う。戦後から続く歴史はもう変わったのだという。
だがダイソーはまさにそんな昭和の物語から出てきて成長した企業である。
なんの才能もなくても愚直にこつこつやって人とのつきあいを大切にして...部下の言うことを聞きながらコントロールしてひたすらに馬力(ネガティブな心も燃料にして)にまかせて邁進し...
今の我々が出来ないことをして生み出された企業。それがダイソーだと思うのです。

最期に動画をひとつ。
広島大学での講演ですが、ここでも「徳」と「運」の話が出てきます。
そして勉強出来る環境にあるということは「親の経済力にも感謝しないといけない」とも。
とても面白い講演だったので貼っておきます。