インターネットくださいさんのこの記事なんですが、なるほど納得。
努力しろ努力しろと言われて、そうそう出来るものではなく。苦しく辛いものだと漠然と思ってるわけですが、成功の課程を努力というならものすごく納得出来る。
学生時代の嫌いな言葉の筆頭が「努力と根性」でした。今はむしろそうしないと結果が得られないので必死に努力?するわけです。ただ、結果が出ないと努力も何もない。それはただの「苦労」ですから。
成功するため、よい結果を出すために苦労する。なるほど、それならばその課程は「努力」でしょう。
なるほど、やはり「好ましい状態を実現するため、全力を傾けることを指す。」そうか...結果が先にあって、その課程を指すわけだ。
ではなんで苦しかったり辛かったりが前面に出ちゃうかというと...「根性」って言葉とよくセットにされるからではないかと。
根性って本当は仏教用語らしいんですが、「精神論でどうにかする」「気合いでふんばる」イメージが強いかと。懐かしい言葉ですが「なせばなる。なさねばならぬ、なにごとも」を精神力でやっちまおう!...なんてことになれば、それは当然辛いし苦しい。なんせ気合いだけで物事を通そうとしてるのですから。
けれど、努力は別に強要されているものではなく。自ら欲してするものだと、今の私は知っています。根性と努力は、決して=だったりセットではないってことも。
先日転職のためにいろいろ奔走しましたが、今の時点では「努力したもんね~」と言われます。けれど、奔走してる時は「頑張ってるな~、がんばれがんばれ」だったわけで。
過去形なんですかね、努力って。そう考えると腑に落ちる。すとんと腹の中に言葉が入る感じ。
人に強要するものでも、ましてされるものでもなく。結果が欲しいなら、欲しいがためにしなければならない行為。辛くても苦しくても、結果が欲しいのだから仕方ない。
スポーツなら、評価されるため。学校なら成績を上げるため。そのために行動する。結果、辛いかもしれないし、苦しいかもしれないけど、結果が伴えばそれは努力。
逆に、どんなに苦しかろうが悲しかろうが辛かろうが、結果を伴わなければ「こんなに苦労したのに誰も認めてくれない」わけで。別に苦労を認めて欲しいんじゃなくて、結果が欲しいがためにやってたことが、辛さやきつさが前面に出すぎて「こなんに頑張ったのに! 努力したのに認めてもらえないなんて!」となるわけで。
でもそれは努力じゃなくて、結果を出すための苦労に過ぎず。結果が伴わなければ...そりゃ報われるわけもないか。
おっさんと呼ばれる年代になって、ようやく学生時代の疑問が解けました。で、なんで成績が悪かったのかも(^^;
ただ、苦労は無駄になるわけじゃなく必ず自分の糧となってるはずなので...せめてそれを救いにするしかないのかな。
ま、個人の考えで実際は大きく間違ってるかもしんないんですけどね(^^