飽くなき挑戦...世界に羽ばたいた4兄弟の夢「CASIOはいつでもきっと何かやる」

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「今買うな、カシオがきっと、何かやる」

 wikiにも掲載されているこの言葉。糸井重里さんの萬流コピー塾というもので「ワープロ」のお題に対して松の評価を取った言葉だそうです。これを聞いた時に「ああ確かに」と思いました。
 まだまだ高いと思うものにはカシオが参入していない。逆にもう買えるな手が届くな。そう思ったものにはカシオが参入している。私にとってはカシオのイメージはものすごくいい会社です。
 思えば腕時計はいつしかカシオしか買っていない。
 携帯もスマートフォンになるまでは好んでカシオしか買っていなかった(G'zOneは今でもやはり欲しい端末です。スマートフォンじゃなければ)。
 ちなみに私の中でのカシオの最大のイメージは
 「元祖価格破壊の王」
 「さすがカシオ!他社にできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる!あこがれるゥ!」
 な感じです(^^)
 生活の身近にありながらその存在を大きく意識させず。しかしいつでも手に入れられる場所が確保され...手に入る価格で用意されている。カシオが生み出した流通網と文具店との関係。
 たとえ「追い上げる側」になったとしても決して諦めず「追い抜いて1位となる」ことを得意とする会社。
 今回はそんなカシオという会社の「生い立ち」部分を簡単に紹介してみたいと思います。
 カシオの歴史は古いです。現在の会社の設立は昭和32年(1957年)といいます。今の社名ではずっと計算機を主体にやってきた会社です。計算機。電子機器ならどこにも負けない実績と歴史を刻む会社とも言えます。
 正式名称は今でも「カシオ計算機株式会社」。
 社名を「CASIO(カシオ)」のみにするのが今風なのかもしれませんが(他社は海外戦略として社名自体を変えることが多かった)、カシオはそもそもブランドネームがそのまま社名からもじったものです。覚えやすいこの社名は創業家の名前から。「樫尾」という名前から来ています。
 現在の会社の設立は樫尾4兄弟と呼ばれる兄弟により行われています。ちなみに初代の社長は...そのお父さん。
 そのルーツをたどると昭和21年(1946年)に設立された小さな町工場。
 樫尾製作所というその製作所は関東大震災の後に生まれた小さな小さな会社。
 しかし技術力には定評があり...その評判をたどって思わぬところから下請けが来た...なんて逸話もあるぐらいですから当時かなり腕のいい製作所だったのでしょう。旋盤加工などに腕をふるったと私は聞いています。特に当時精度の悪かった歯車を作らせたらやはり樫尾がよいという評判があったようです。昔老人ホームに慰問に行った時にそんな話を聞いたことがあります。
 この製作所を立ち上げたのが「4兄弟」の長男。忠夫さんになります。
 その後10年。汗を流し涙を流し。小さな製作所は着実に頑張り抜きました。そんな兄の背を見た弟達(他の3兄弟の方々ですね)はいつしか「兄や父のために何か出来ないか」を模索し始めます。
 その中でも特に凄かったのが俊雄さんという方で。カシオのホームページにも書かれていますが、ともかくアイディアマンであり発明家であり努力家だった方。今のNTTの前身にあたる会社に勤めていた訳ですから普通に考えたらかなり頭もいいし将来も見込める。
 でも。
 いつか発明家になるんだという思いが。家族への思いが。会社をやめて兄の製作所へとその身を向かわせます。
 そして「カシオ最初の発明品」と言ってもいい「指輪パイプ」が誕生。
 これどんなものかというと「根元まできっちりたばこが吸える指輪」だと思っていただければ。物資のない時代。金のない時代。それでもたばこは「大人の男」のシンボルであり誰もが吸っていた時代です。最後まできっちり吸ったら...そりゃ火傷しますわな(^^;
 この指輪かなりスマッシュヒットしたようです。大いに儲かり兄を喜ばせたということです。
 この時儲けた金が後々のカシオにとってとても重要な資金となります。ある意味でカシオはこの商品で誕生したと言ってもいいんじゃないでしょうか。それほど大きい価値のある商品でした。
 この後「よし次だ!」となる訳ですが、凡才の身ならば類似品か進化品を作るところでしょう。
 しかし俊雄さんは違います。
「次は計算機だ!」
 当時計算機といえば今のコンピューターとはまったく違う存在で。(文字通り計算機。通称電卓と呼ばれるのは卓上計算機のことですが、その計算機です)歯車で動く無骨な代物でした。「手回し計算機」などという名で呼ばれていました。日本では作りたくても作れないもの。高い精度と技術を要求される計算機はある意味で夢の製品のひとつであったでしょう。
 俊雄さんのすごいところは前職で培った電子技術の知識から「こいつは歯車なんかでやってたんじゃだめだ。全部電子回路でやったら小さくて早くてすごいものになるんじゃないか」と思ったこと。そして町工場でそれをやり遂げてしまったことでしょう。
 朝から晩まで下請け仕事に明け暮れ。夜は寝る間を惜しんで開発に没頭。
 他の兄弟も巻き込んで来る日も来る日も改良を続け。(この時点で他の2兄弟もそれぞれの仕事を辞めて長男に合流。4兄弟で製作所を切り盛りしていた)
 最初に自信満々で作り上げた計算機は「時代遅れ」と言われてしまい。(足し算引き算は出来てもかけ算等が出来ないものだったと言われています)さらなる改良の日々が続き。
 ようやく完成のめどが立ったとき。
 全てをご破算にしてもう一度最初からやりたい...兄弟の前で俊雄さんは言ったそうです。
「これではたくさん作るのが大変だ。違うやり方でやってみたい」
 反対もあったのでしょう。もう出来上がる寸前です。普通なら最初からやり直そうとはしない。企業ならそのまま出しつつ次の製品を最初から出す等考えるところです。
 しかし今のカシオにも通じる「安く販売したい」「高性能であること」「量産がスムーズに行くこと」の思いは強く。ついには開発のリスタートを決意します。
 難しいことは言いませんが、この時「機械的な計算機」を捨てて「電子的な計算機」に舵を切ったのはものすごいことだと思います。リレー式...まぁ古い電話交換機などを調べると出てくる方式ですが、下手すればマンションの1フロア(ほぼ1階分)を占有する回路をもってしてようやく計算機として機能する...この時代のリレー式の計算機とはそうした代物だったわけです。
 それを一気に小型化してやろう。机一個ぐらいにしてやろう。安く売れるようにどの企業でも導入出来るようにしてやろう。その野望がついに形となったのが昭和29年(1954年)の末。
 独自開発。自力の改良。初の「テンキー搭載」(今でこそありふれた代物ですが、テンキーという数字だけのキーボードを搭載したのは画期的だった。ただし計算用のキー等はなく本当に10個しかキーがなかった訳ですが)。
 何百万もした計算機がわずか50万円(正確には48万円ぐらい)。
 清潔な部屋でしか使えないと言われた巨大なリレー式計算機を小さな小さな製作所が事務机サイズに押し込んだ。国産計算機の幕開けを飾ったその試作機は後の純国産量産型電子計算機「14-A」。
 14桁の計算が出来る計算機でした。
 翌年は改良と共に今で言うマーケティング政略が練られました。この当時にそんな言葉もなく。概念としてあったかどうかすら怪しい時代にカシオ4兄弟はそこまで見越して戦いを開始していました。
 ところが言うは易し。行うは難し。
 発表の場すら設けるのが困難でありお金のかかることでした。ビジネスショーはすでに行われていた訳ですが(そもそも第一回ビジネスショーが銀座で行われた時に計算機を見たのが開発の動機ですし)出展にはハードルがいろいろと高かった訳です。
 それでも彼らは「これは売れる」と商品への自信を捨てませんでした。1年をかけて改良も進め...ついに年末に発表にこぎ着けます。場所は「白銀の街」札幌。
 そして有名な事件が起こります。
 計算機を空輸しようとしたら...でかすぎて飛行機に搭載出来ないと言われてしまったのです。
「分解してくれ」
 記録が手に入らなかったのでわからないのですが、おそらくは今のJALだったのかな...無理もない話で。しごくまっとうな話で。でもそれはとてつもない難題。
 自作パソコンなんてのをやってれるとこれもよくわかります。
「ちゃんと動いてるものはいじるなバラすな」
 というのが鉄則だったりします。きちんと動いているものを分解して組み立てたら...再びきちんと動くかと言うと。実際はそううまく行くものではなかったりするわけで。
 当然この時の計算機も「そうなってしまった」という。
 札幌に運び込まれた計算機はどう修理しても動作せず。スライド等を用いて説明はしたものの客の反応は薄く。問い合わせもまばら。
 明らかに「失敗」してしまったのです。
 失意のまま帰宅する兄弟ですが...実際のところ「見るべきところを見ていた人はいた」わけで。
 この札幌の発表会。本人達は失敗と思ったのでしょうが、実は結果だけ見れば「大成功の種」でした。
 以前より樫尾製作所に下請け仕事を発注していた会社。
 「内田洋行」
 今でこそ巨大な企業ですが、当時はそこまででもなく。
 当時のイメージだと...事務機を扱う結構大きな会社といったところでしょうか。
(この内田洋行も相当に苦労して大きくなる会社なのですがそれはまた後日どこかで書きます)
 その内田洋行の偉い人から連絡がきた。
 また下請け仕事でも発注しにくるのかと思えば...
「計算機を発表されたそうで。ぜひ見せて欲しい」
 という意外な言葉。
 実は札幌の発表会に内田洋行の札幌支店長が顔を出していて...他社の芳しくない反応を見つつも「これはいけるんじゃないだろうか」と判断。本社へと連絡を入れていたという事情がありました。
 内田洋行はそれまでに何度か樫尾製作所に下請けを出しており「あいつらはやる。やれるやつらだ。仕事は確かだし腕もある」という思いがありました。
 失敗したはずのプレゼンが呼び込んだビックチャンス。
 樫尾兄弟はこれをモノにします。
 足かけ7年以上をかけた「発明の夢」がついに形として市場に売り出されることに。
 この時「14-A」を制作販売する会社として誕生したのが今日の「カシオ計算機株式会社」になるのです。それが最初に書いた年である昭和32年。今のカシオ計算機の誕生です。
 4兄弟が分担して地道にこつこつやってきた成果と信用の上に、発明品がしっかりと乗っかった瞬間でした。その時に父親が社長になったというのもいろいろと考えさせられるエピソードです。父のためになのか。父のおかげであったのか。
 この時に普通に社名を英文字で書くと「KASIO」となるところ「CASIO」にしたのは世界に羽ばたく会社になろうという意気込みからだったそうです。(キヤノンと似たような理由ですね)
 内田洋行の後押しもあり14-Aは好調に滑り出し...カシオ計算機株式会社はついに軌道に乗ります。
 その後順調...とはいかないまでも主軸を計算機に据えたカシオは「より小さな」製品の開発に邁進します。
 そう。
「卓上計算機」
 の時代へと突き進もうとしていたのです。
 その頃になるといくつかのメーカーから国産計算機が出てくるようになりました。おおらかな時代でしたのでリバースエンジニアリングというか分解して調べちゃったというかまぁそんなこともあったようですが...カシオもまたそうしたメーカーの中で一歩一歩確実に歩みを進めました。
 そしてカシオを象徴するあの商品がついに世に出て...カシオはついに「世界のカシオ」へと羽ばたくことになります。
 時に1972年8月。
「こたーーえ、いっぱつ!カシオミニ!」

(これは1978年のCM。最初の発売日は1972年の8月で今年が40周年。最初こんなに小さくはなかったですが、やはりインパクトはあった)
 結構な年の人なら知ってるんじゃないでしょうかこのCM。
 今の大学教授なんかだと懐かしそうに目を細めて話してくれたりするんですが、日本中が「カシオミニください!」と叫ぶぐらいの空前の大ヒット商品となりました。
 まぁ今の人にとってはなんだそりゃ?と言われそうですが、簡単に言ってしまえば「安い電卓」がカシオミニです。
 とはいえかなり思い切りのいい製品で今みても「うわーカシオらしいなぁ」と思えるのが初代カシオミニ。
 当時電卓が安くなったとはいっても89800円とかそんなもので。しかも結構でかい(苦笑)
 そうですね...ゲームオタクなら「PCエンジンGTとだいたい同じ形」と言えばわかるところですが、まぁともかくごつくてでかくて使いづらい。液晶じゃなかったですし。
 そこにカシオが切り込んだ。
 始めての計算機を作ろうとした時の思い。
 「安く販売したい」「高性能であること」「量産がスムーズに行くこと」
 始めての計算機を作った時の思い。
 「一気に小型化してやろう」「安く売れるよう」「どの企業でも導入出来るよう」
 そのためにカシオは相当思い切ったことをしています。
 当時の電卓はCMでこそ「ひとり1台」なんて言ってましたが...まぁ高すぎる。となると企業に1個か2個あればいい方だった訳です。それを「全社員が持てる値段にする」ためにはどうするか。
 個人が電卓を持てる時代にするにはどうするのか。
 やるなら1万円。この値段ならいける。じゃあ1万円で売れるようにするにはどうするのか。
 そうして出来たカシオミニ。
 小数点以下の演算が出来ません。
 そんなに早くありません。
 しかし。
 圧倒的に安い。
 そしてよく考えてみるとわかるのですが、普通の家庭では小数点以下の計算なんていらないし...企業で計算機を使うのはどんな時かというと「金勘定してる時」な訳です。
 なら必要ない。
 切ってしまえ。
 思い切った製品プランです。
 ですがこれがカシオの真骨頂。
 そしてこの時に同時に立ち上げられたのが今日に至るまで続く「文具店との絆」とも言うべき流通網でした。
 時期はずれますが、TVCMをそれまで重視していなかったのを一転し。軽快な歌と共に広く一般にアピール。
 そして文具店にいけば触れる。見れる。そして買って帰れる。そこにあるものが欲しくなる。
 品切れ続出の空前の大ヒットとなったカシオミニ。当然他社も続々と参入してきた訳ですが...
 カシオがものすっごく苦労して割り切って作ってようやく出来たカシオミニに対抗するというのは大変なことで。
 小さな会社やなんとなく片手間でやってた会社は軒並み撤収。
 シャープやキヤノンなんかは別としても小さな会社は市場より片っ端から淘汰されてしまいした。
 「必要な機能だけに絞り込む」
 「ともかく小さくする」
 「なにより安くする」
 「買いに行ったら買って帰れる」
 その後のカシオの快進撃を支えたと私が思っているマインドはこの時点で確立したものかと。たぶん今でもこのマインドはどこか残ってる気がします。
 その後腕時計なども含めて計算機のありとあらゆる分野に進出。手堅く商売を拡張していくんですが...挑戦というか発明のポリシーがそのまんま社風の中に残っており。
 あまり売れませんでしたがPC-8801と戦ったFP-1100とか。
 ゲーム機黎明の時代に舞い降りたPV-1000とか。(ファミコンの前に降り立った瞬間瞬殺されましたが)
 挑戦の心はいつも忘れない。それもまたカシオ。
 ただ思い切りのいいスペックの定め方が時に裏目になることもあります。
 低価格MSXの初期代表格PV-7(ゲーム機としてのパソコンでしたがいかんせんRAMが少なすぎた...後に改良型も出ました)とか。でもこれがあったから後にパナソニックとかが低価格機でいろいろ出してくれたようなもので、目の付け所はよかったんですが...なんというか時代を先取りしすぎるところもあるので(^^;
 こういうことをやりまくってた時期というのがありまして。その中で産声を上げたのが中興の祖というか今のカシオを代表する製品となった時計。
「G-SHOCK」
 当時すでに「デジタルはカシオ」と自信を持って宣言していたカシオでしたが、このG-SHOCK。最初日本ではあんまり売れず。むしろ火がついたのはアメリカが先でした。
 頑丈さというかタフネスさを売りにした腕時計。じゃあどうやって北米で売ろうか。
 アメリカのカシオが出した結論がCM。
 アイスホッケーでパックの代わりに腕時計が打たれまくる。
 デザインもシンプルでありタフネスだと言われれば食いつく層というのがいます。
 まずはファッションとしてプチ流行。(この時時代を先取りする日本のファッションリーダーが原宿に逆輸入してるという変な現象も。街の時計店では売れてないのに原宿だと注目される逆輸入モデルがあったり)
 で、まぁそんなCM打ったら「ほんとかよ!」という人というのはどこにでもいるもので。
 TVで検証された訳ですね。
 ちなみにこの時日本のカシオも北米のカシオも「大丈夫かなー」という状態。CMにはそうした演出をいれたものの実際のところ「無事」かどうかはわからない(そんなテストそもそもしてないですし。地面に落としたり車で踏んだりはしてたみたいですが)。
 まぁ実際のところは「まったくもって無事」だったということで、一気にブレイク。
 軍人さんやら消防士やら...腕時計をよく壊す職業の人達から先に大ブレイクします。というか売れまくり。
 建築現場での逸話ですが、25階付近からG-SHOCKの初代モデルを落っことしても「ちょっと削れただけ」で動いていたとか。うっかり洗濯機で洗っちゃったけど動いたとかなんというか...たぶんカシオの想定以上に酷使されたっぽいんですが、G-SHOCKは耐え抜きました。
 そうするとまぁ北米で大ヒットするとすぐ日本でも大ヒットするので(個人的には全米で大ヒットNO1現象と呼んでいますが)、日本でもブームが来ます。まぁ最初はファッションからだった訳ですが、すぐに建築現場のおっさんなんかも使い始め。雨の中でも泥の中でも使えるということでいきなりプロの現場にはG-SHOCKという雰囲気まで浸透。
 その後も売れ続けました。
 カシオらしさの中に「シンプルで頑丈」というのは元からあったんですが、このG-SHOCKで一気にそのイメージは強くなったと思います。
 
 私が愛用したG'zONEはその頑丈さを携帯電話に持ち込んだもの。縦型ストレートもよかったんですが、TYPE-Rの格好良さとかかなりすごいものがあります。個人的には一番使い込んだW42CA(正確にはE03CAというビジネスモデル)に愛着がありますが...
 それとカシオトーン。実はシンセサイザーでもカシオは手広くやっています。鍵盤付きの安価な機種を探したらまずはカシオの製品から試すべき。安価でいい音。多機能。子供に与えるならカシオが個人的にはオススメ(その後本格的にやりたくなったら別の製品へと進んでいけばいいかと)。
 まぁ今ではカシオトーンとか言わないんでしょうけれど、市場では存在感バツグンのメーカーではあります。
 電子計算機から発生したのが電子楽器ですから...カシオとしてはここは外せない。デジタルはカシオ。デジタル機器、デジタル楽器もまたカシオの戦場なのでしょう(笑)
 私はローランドやYAMAHAの音源が好きですが、CTK-7000の音とか聞いてみるといい意味で安っぽくないカシオの音が楽しめて思わず前のめりになったり。
(個人的には古い世代なので、D-80にTR808辺りを組み合わせてTG-77と行きたいところですが。M1も欲しいかなー。当然カモンミュージックの打ち込み混じりで。...いや、古いですねこれ(T_T)カシオは音源モジュールではなくキーボード一体型に一貫してこだわってきているので私はあまり触れませんでした。音楽をきっちりやってた友人はCZ-1を絶賛してました)
 その後も堅実に着実に人の生活を豊かにするために歩んだカシオは今日でも身近な製品として身の回りにあったりします。
 
 電卓(売り場で見てみればその力がわかるかと)。
 時計(腕時計だけじゃなく目覚ましでも大手です。中国メーカーすら蹴倒して国内の売り場に確固たる位置を作り上げています)。
 デジカメ(EXILIMとかとってもカシオらしいデジカメです)。
 見回してみれば街のいたるところに...世界中でカシオの製品を見つけることが出来ます。
 4兄弟の描いた夢。
 こつこつと積み重ねてきた歴史。
 チャンレンジャー過ぎる発明への熱。
 ありとあらゆるものが「カシオらしさ」であるのかもしれませんが。
 安く。そしていいものを。
 日本の物作りを偉そうに語る人がいるのを見るたびに。
 なんであなたの口からカシオの名が出ないのかと突っ込んでいたりします。日本が誇ってきた物作りの精神という人がいます。けど、それは時代遅れなんだと。今の時代にはそぐわないなんて人もいる訳です。
 でも。
 その精神でカシオはやってのけている。その物作りの精神を世界に広げて...世界のカシオとして立っている。
 小さな製作所からスタートしたその会社は今や世界のカシオとなった。
 目立たないいぶし銀のような魅力を持って。今もカシオは歩んでいます。
 それが電子機器であるならば。
 高すぎて手が出ないなと思うならば。
 あるいはカシオが参入して...価格帯をぶちこわしてくれるかもしれない。
 本当に使う...必要な機能だけにしぼりこんだ、とてもシンプルな商品を安く提供してくれるかもしれない。
 
 「今買うな、カシオがきっと、何かやる」
 かつてそう言われたカシオは今でも健在です。
 他社に出来ないことを平然とやってのける。
 カシオなら絶対に安く...丈夫でいいものを作ってくれる。
 今までのユーザーがそう思ってくれるだけのことをしてきた会社カシオ。
 ソニーやパナソニックのような巨大企業ではないかもしれない。
 けれど。
 日本発の電子計算機メーカーとして。
 その名を胸に刻んでおきたいメーカーだと思っています。
 カシオが掲げる経営理念は「創造貢献」。
 カシオが掲げる自社テクノロジーの表現は「デジタル技術」「省電力」「耐久性」「小型化」「使いやすさ」。
 それら全てが。
 始まりの計算機の時点で「すでにあった」ものばかり。そして誰かが偉そうに語る日本のものづくりとやらとどうにもだぶる。そんなもの語るまでもなくこの企業を見ればいい。
 そう。語る必要もなく。
「カシオを見ればわかる」
 日本を支えてきたものづくりの力や考え方は今に通じないのだろうか?
 カシオを見ている限り。やり方次第じゃまだまだやれるしいける。
 そう思えてくる。
 そしてすでに枯れてしまった市場だと思っても。
 カシオが改めて本腰を入れて商品を投入したら。思いも寄らない...シンプルで使いやすく低価格な製品であったなら。その市場は別の輝きを放ち始める。今までにもそうしたことが多々ありました。
 
 だから私は思うのです。
「カシオはいつでもきっと何かやる」
 高級品ではなく身近な製品。丈夫で長持ち。それでいてちょっと高級感があるとうれしい。
 どれも庶民が求める願望ってものだと思います。
 それはそっくりカシオの製品に当てはまる。
 不景気な世の中だからこそ。
 カシオはまたやってくれる。
 風穴をあけようとしてるんじゃないか。
 そう思っています。
 私も愛用の製品多いですしね(^^;
 私の愛用の腕時計はPRO TREK。G-SHOCKの登山家専用モデルみたいなものです。ごついしスーツに合うものではないんですが...始めて手に入れたその時からずーっと好きで。何モデルか買っています。今でも最初に入手したDPX-500は取ってありますし。
 G'zONEは今でもスマートフォンとして展開される人気シリーズ。
 かつて工事現場に資材や工具を運ぶ仕事をしていた頃。現場監督が言っていた言葉をふと思い出します。
「カシオじゃねぇとだめなんだよな。結局さ。
 俺たちの仕事はさ。壊れちゃだめ。
 かといって狂っちゃだめだ。正確に。壊れず。雨ン中でも使えてよ。
 それで始めて道具だよ。使いモンになるってんだ。
 にーちゃんに教えてもらったケータイもよくみりゃカシオだ。買い換えちゃったよ(G'zONEのこと)。
 土砂降りの中でも使えるケータイに腕時計。このケータイがありゃ暴風雨の中でも撮影出来る。
 日本の工事現場はカシオが支えてんのかもなー」
 どうやら物作りの土台。土木の分野もカシオが支えているのかもしれません(笑)
 かつて熱を伴った思いを持った男がいて。その兄弟達がその思いを支え。
 そして日本を土台にこつこつとその力を蓄え。
 チャレンジャー精神を今に伝えつつ。
 カシオは今日も世界を回すデジタルの歯車として動き続けています。
 高度な機器に目を奪われがちなIT。
 けれどその根底を支えているのは電卓だったり...時計だったり...「人が使う小物」であって。それはITに限らず人の生活に根ざしたもので。それらを作り続けている企業カシオ計算機。
 
 難しい言葉はいらなくて。
 カシオはやっぱり今でも。
 デジタルはカシオ
 この言葉でなんとなく...今でもカシオのイメージが伝わってくるんじゃないかなーと。
 不景気な世の中で。各社がその売り上げ予想の下降修正を余儀なくされている。
 そんな中でカシオもまた修正発表をしました。
 けれどその数字を見て私は「ああカシオの経営陣の予想はすごいな。そしてトラブルを乗り切った社員はすごいな」ととても強く思いました。
 修正幅が他社に比べるとそれほど大幅なものではなく。もちろんこれからまた下降修正しなければならないかもしれませんが、今の予想ではまだいける。ふんばれる。そんな感じに見えて。(売り上げはともかく利益幅はだいぶ小さくなりましたので、社員が薄利で踏ん張って在庫を売ったのではと私は見てます。販管費もかかったでしょうし...やるなぁ...)
 そして修正の主な理由が「タイの洪水」なわけで。あれで時計工場がひどい被害を受けましたから...それでも減った売り上げを社員が支えてここまで戻した。そう考えるとやはりカシオはすごいなと思うのです。
 新規事業の立ち上げが遅れたと決算発表で言っていました。チャンレジャー精神もまだまだ健在です。 
 アジアの工場は中国から他の国にもどんどん広がって。けれどそこには治水の難がまだまだあって。どの企業もいろいろと悩みながら投資を続けている。
 日本の企業が円高であえいでいる中。なんとしても黒字目標に向かってどの企業も走り続けています。そんな中。派手な戦略に目が行きがちです。カシオのような会社の有り様はあまり目立たないかもしれません。
 けれど私は松下の名を捨ててアジアのブランド力を落としたパナソニックや...もはやどこの国の負債企業なのはわからないソニーよりも。
 カシオのような地に足のついた企業の方がこれからも戦えると思っています。
 少なくとも明確な「売り」となる主軸商品をもち。
 その他の事業でも一定の成果をあげている。
 経営者も社員も息苦しい時代の中でやってくれている。それが外からわかるだけに。
 「CASIOはこれからもきっと何かやる」
 そう思っています。日本のカシオとして。世界のCASIOとして。これからもずっと。
 私はこれからもカシオのファンであり続けたいと思いますし。
 ファンでいさせて欲しい。
 そう思っています。
※余談ですが、現社長は四兄弟の3男である「樫尾和雄」さんです。次男の「樫尾俊雄」さんは会長に。四男の「樫尾幸雄」さんは副社長。そう。いまだ創業者が現役で活躍されているのです。底力と一貫した経営理念はそのおかげかもしれませんね(^^)
 社長...確か昭和4年生まれなので、今だと80歳ぐらいでしょうか。それでいていまだ世界の一線に立っている。すごい方だと思います。