江戸時代のサバイバー野村長平 ~運の悪さを不屈の意志で踏み倒した男

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テレビでやってる鉄腕DASH。その中のコーナー無人島開拓を見ているとある人の記録が頭に浮かぶ。

野村長平。

実に13年。漂流から無人島への到着、仲間の死、新たな漂着者との合流、船の建造、そして八丈島への到着...
幕府をして「見事なり」と言わせしめた偉大な「漂流者にして開拓者」である。

wikiにも記述がある

野村長平は土佐の海に生きる男であった。
土佐では船は漁だけでなく輸送にも多く使われており米などの物資を運搬するためにも多用されていた。千石船と言われ大海原に出る力はないが帆を張ることである程度快速を出せたため鎖国をしていた幕府としては都合のよい船ということでこの船の使用が奨励されていたという経緯もある。
土佐ではこの千石船をうまく用いており長平はその船の船乗りの男であった(船頭だったと言われる)。
この千石船は快速ではあるがもろく。帆を利用する以上風によってはすぐに転覆、漂流することがありたくさんの船が失われ船乗り達の屍を海原に沈めていた。
事故が増え土佐藩としても何か対策を...と手を打ち始めたばかりの頃。
時に1785年。(天明5年)
おりしも日本中で火山の噴火が続いて民心揺らぐころ(浅間山天明3年大噴火をはじめ伊豆諸島やあちこちで火山が噴火しまくっていた数年)。
野村長平が乗る千石船も米の輸送中(藩の米を届けた帰りだった)暴風雨に巻き込まれてしまい10日以上漂流。土佐から流れ流れて伊豆諸島の鳥島へと漂着してしまう。
この時野村を含めて生存者4名。
過酷なサバイバル生活が始まった。
だが始まってすぐにこの生活は絶望的なものへと変わる。
後に幕府の取り調べに野村が答えた記録があるようだが、この漂着後約1年で他の3人は相次いで亡くなってしまったのだという。(1年と半年程度と言われる)
過度のビタミン不足。栄養失調...ストレス...様々な要因があり僅かな時間で野村は孤独な漂流者へと追い込まれた。
しかし彼は不屈の男だった。
島にはたくさんのアホウドリがいた。それを殺して食べて飢えを凌いだ。
星を見て日没を数え。ほぼ正確な日時を把握し。指折り数えて生還の日を待ち続けた。
決して諦めなかった。

数年の孤独を踏み砕いて生き延びいた男。

アホウドリを捕食したが火がないため(火打ち石がなかった)生で食し。
水はアホウドリの卵の殻に雨水を溜めてすすって生き延び。
服はアホウドリの皮と羽根で自ら作り上げた。
(武器などもアホウドリの骨などから自作していたらしい)

栄養は偏る。孤独は心を苛む。けれど不屈。折れない。
そうして野村は生き延び続けた。

転機が訪れた。
大阪(堺)の船が難破し漂流。
何人もの人間が野村の島に漂着して来たのである。
野村は彼らを助けあげ生活を共にした。
漂着から3年。大阪の船のこの人々との合流により野村は孤独から解放された。

しかしそれだけだった。ともかくこの島で生き抜くしかない。
幸い船からいくばくかの道具と資材が引き揚げられことで生活は改善。
ともかく男達は生き延びるために身体と知恵を絞りきった。

そして2年後。またしても船が難破して漂着。今度は鹿児島(薩摩)の船であった。
1人の男と二つの集団が合わさって1つの組織となったのはこの時。

2つの船の船頭と共に野村はこの組織のリーダー格となっていた。
生活は安定したが(鍋釜、火打ち石など生活に必要な道具が揃ったため)やはりこのままではどうにもならぬ。

全員で相談した結果船を作って脱出することを計画。
幸い鍛冶師や大工の経験がある者が数名いたため具体的な計画が持ち上がった。

鉄腕DASHでは反射炉が出てくるが野村達も似たようなもので竈を作って高熱とし船の廃材や漂着物を解かして使用した。釘などは漂着物から流用したものもあったようである。
どれだけの船が難破して失われていたかがわかる話ではある(つまりそれだけの船が失われて残骸などが漂着しまくっていたということになる)。

船が嵐などで海に流されることを嫌って高いところで建造。そこから海に向かって石をけずり木を切り倒して道を作り...

野村は時期が違う難破船の漂着達だが区別することなく、それぞれの人々を救ってははげましいつか日の本に帰ることを決して諦めず声をかけたという。

不屈の男に導かれるように男達は力を尽くして船を作り上げた。

それどころか島を離れるときに再びまたこの島に流れ着く者がいたら大変だからと洞穴に資材や船の作り方生き延び方を書いた石盤などをしたためて海岸からその洞穴に行けるよう目印まで設置したという心使いまで見せている。(船の建造に必要な道具類もここに置いて行ったという。後に幕府が検地しているのでその時に確認されたのかもしれない)

また漂着したものの無念にも死んだものたちを手厚く葬ったとも伝わる。
(野村達の供述では荼毘に...とのことだが後の幕府の見地によればおそらくは土葬だったのだろう。石碑があってその下に埋葬されていたらしい。さすがに火葬は厳しかったのだろう)。

野村自身が歴史の中に埋もれた人だが、難破船2隻の船頭2人だけでなく3人でリーダーシップを発揮し最終的には生き延びた14名全てと江戸へと帰参を果たしている。

この島からの脱出に不随するエピソードがありそちらの方はwiki文学のひとつ「還住 (青ヶ島)」として名高い。

このwikiがとても詳しくて天明に起こった大噴火と島を捨てる決断、八丈島での苦難に満ちた日々、なんとしても故郷へ戻ると誓った島民達の苦難と苦痛の歴史が綴られている。
この青ヶ島の物語の中で野村達の存在がかなり大きい転換のシーンにあたる。

当時大噴火から島を捨てざるを得なかった島民達が時を経て名主を中心に島への帰還を企図し、幕府からの支援もあって復興開拓が進められていた。
...といえば聞こえはいいが幕府が用立てた船も漂流したり沈没したり。
八丈島との行き来でも何人もの死者を出す有様であり実際は相当にきびしい状態であった。

野村が青ヶ島に到着した時は青ヶ島から八丈島に戻る船はすでにない状態であったとも言われる(そもそも青ヶ島のまわりの潮は速く荒いと言われており肥沃な大地が噴火前にはあったからこそ人々は生活出来ていたのである)。

野村の船は粗末なものであったが八丈島から船がこない限り青ヶ島側からはどうにもならない状態であったためまさに「天運」と呼べるものであったろうか。

そこで青ヶ島復興の現状を伝えるため島民2人を乗せて野村の船をもって八丈島に出発。
無人島で作られたこの粗末な船は見事に八丈島への航海を耐え抜き。
到着することが出来たという。

もともとは無人島に漂着した人々の手により沈没した船の具材、漂着した流木などで作った船であり...多少の道具こそ沈没した船より引き揚げてはいたが基本は廃材+島の鳥の骨と皮と羽根で作られたとてつもなくおんぼろな船であった。
よくぞ八丈島までこれで...と八丈島の島民が絶句するほどのものだったとう。

だが青ヶ島にたどり着いた時に一時的とはいえ数日ぶりに大地を踏みしめられたこと。

生きて日本の民と出会えたこと。

物資が乏しい中でも歓待してくれた青ヶ島島民のくれた「ちから」で見事にたどり着いている。
(青ヶ島島民側から歓待したと書かれているが長平側の調べでは特に記述はないようで、おそらくは乏しい水と食料を分け与えたものと思われる。それだけでもこの時期の青ヶ島からしたら大変なことではあるので歓待といって間違いはないだろう)

最初の遭難からこの時12年あまりの時が経過していた。
島にたどり着いた時は数人。そこから数年で孤独になり。
後から来た同じ境遇の遭難者達と合流し。組織としてまとめ上げ。

ただの土佐の男の一人であり...
高知県沿岸部で船乗りをしていただけの男が不幸な事故から生還。
さらには後の事故で死ぬかもしれなかった男達を助け上げ力を合わせて帰還したことは幕府にとっても「意外な事」であり。結構な話題にもなったという。

彼らは伊豆にて取り調べを受けて後(幕府直轄の離島管理の役職は伊豆にあったようだ)体力の回復と身なりを整えるための助成金が用意された後江戸にてさらに詳しい取り調べを受ける。

当時キリスト教弾圧の時期であり離島の人々にはキリシタンが多かったため野村をはじめとしたこの漂流民の集団は相当厳しくお調べを受けたようだ。
だがそもそも高知のただの船乗りである。
どれほど責められようとも知らないものは知らないし答えようがないのである。

ここで奉行より疑いを晴らされたことで、ようやく沙汰を受けて帰参を許可される(当時の日本での陸路での移動には当然関所を越えるための許可状などが必要なのでそれらも手配されたという)。
土佐藩からもお調べの後に帰参の許可がおりて野村は放免された。
こうして彼は10年以上の空白の時間の後に故郷へと戻ることになる。

余談だが彼が故郷に戻った時はおりしも13回忌。
そのため親族が集まっており幽霊扱いされたりなど大変な騒ぎであったようだ。
20そこそこの若者であった野村はこの時37才。
騒ぎはあったものの故郷では生存が喜ばれ受け入れてもらえた。

ここに10数年の遭難、漂流を乗り切った江戸時代のサバイバー野村の物語が終わった。

もう一つ余談ではあるが...
これらの経緯があったことから帰参時には家名を名乗れな状態であったが(1度死んだことにされ藩からすると家から出た状態になっている。家名はとても重いものである。当然あとつぎは別の人物があてられて家は存続。長平の居場所は本来なかった)、土佐藩から特別に「野村の家名を名乗ってよい」という許可が出ている。
何年も行方不明であった男に対してこれは破格の待遇でもあった。
土佐藩からもよく帰参したということでなにがしかの沙汰があったようだが記録は乏しい。もともとの野村の家とは別に分家という扱いになったものと思われる。

幸いたくましさを身につけて戻ったこの男に惚れる女もいて女房も子どもをもつことが出来、この体験を人々に語ることでわりとよい金品を得ることも出来たという。

小さな船で嵐に巻き込まれで無人島にたどり着き。
仲間はばたばたと死んで行った。
そんな中で決して諦めずに生き延び帰参を果たした彼はとても立派だしものすごく「ついてない男」だったと思われる。
まさにダイハード。
ハード過ぎる人生だけど。