「うらやましい」から「うらめしい」へ...「嫉み」と「妬み」のその先へ

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「ちくしょうあいつうまくやりやがって...うらやましい...なんであいつばっかり...不公平じゃないか!」

 冒頭から変なセリフで申し訳ないんですが、今回の記事の主題はまさにこの言葉です。

 そねみ、ねたみ...そうした感情がどうも世の中に蔓延してきたような。
 嫉み(そねみ)と妬み(ねたみ)は同じ意味だと言われています。
 漢字だけを合わせると嫉妬となりまして、合わさると馴染み深い言葉となります。

 どうもこの嫉妬という言葉...男女間のもつれによく使われますが、実際にはもっと身近なものを指す言葉。
 wikiにある通り「ひがみ・ねたみ・そねみ・やっかみ・ヤキモチ」などを指しまして。私はこれを簡単に「うらやましいそして恨めしい」などと言っています。
 「いいなーあいつ」...という感情が「あの野郎うまくやりやがって」となる。
 嫉妬。
 冒頭のセリフがまさにこれ。
 どうも最近思うんですが、この嫉妬が溢れて世の中を満たし始めてるんじゃないかと。
 今回は最近思うことをちょっとまとめた話になります。あくまでも個人の意見ということで、不快に思われる方もおりましょうが、ご容赦を。

※この記事は2012/09/18に限定公開した記事に追記を行って、現在の私の考えに多少変更したものです。NHKの下りなどは当初ありませんでした。読みづらい文章になってしまったことをお詫びします。また、不快になられましたらブラウザを閉じていただければと思います。

 震災後からですが私は普段リアルでもネットでも東電(東京電力)批判はなるべくしないようにしています。


 上層部はともかく現場は必死に毎日働いてるでしょうし批判されるべきは責任を取るべきひとたち。そう考えているから。

 人の上に立つというのは責任を取る立場になるということだと思うので、本当に批判されるべきは上に立つ人達だろうと。
 責任者は責任を取るのが仕事ですから、責任を取らないなら役職なんて与えてもいけないし、もらってもいけない。
 以前から思ってましたが、こうした災害時や様々な事件の時に現場を責めるのはどうも私の中では感覚が違う。

 上にも書きましたが「責任者は責任を取るのが仕事なんだから、責任者に仕事してもらいたいものだ」...そう思うことはありますが。
 まぁ、他にもいろいろ理由はあるんですが、それらはまたいつか別の記事にまとめます。

 まぁ、それはおいといて。

 いろいろと批判する人がいるのもまぁ当然なんでしょう。
 あれだけの事故です。
 事故自体は自然災害が原因だとしても、その後の対応がいろいろまずかった。
 それは責められても仕方ないと思います。
 その部分については責めを負う部分がたくさんあるかと。
 残された人々。甚大な被害etc。
 被害にあわれた方はそれこそきつい言葉を投げかけるのも当然だとは思うのです。

 ところがどうもTVにしろ新聞にしろネットにいろ...周りを見てると何かが違う。ひっかかる。事故直後にこの記事を書いて、いったん封印したのも自分にもう少し冷静な目が欲しかったから。
 けれど、マスメディアは事故直後よりあまり姿勢を変えておらず。相も変わらず一定以下の立場の人達を叩くことに終始する。
 あるいは原発そのものや政府批判へつなげることばかりしている。

 その影響なのか、周りではこの数年よく聞いたのが現場への批判で。
 「あいつらにはボーナス出すな」
 とかまぁよくわからない話が飛び交って。

 給料もいらないだろう、責任を取れ、むしろ死ね...いやはや乱暴な言葉が飛び交ってました。
 どうも見てると「あいつら高給取りじゃねーか」という思いが根本に。もはや事故とか被害とか関係ないところから言葉が生み出されてはいないかと。
 先日からこの対象にNHKが加わって来ました。これも報道がスタートなのかもしれませんが、根底にあるのは「あいつらいい金もらってやがるのにおとがめなしかよ、うらやましいな」なんじゃないかと思う面も。全部が全部じゃないんですが、人の心にこびりつくようにこうした思いがちらちら出てきている。

 賠償・保証。

 原発の件はあれだけの未曾有の事故であり、賠償責任などいろいろありますから確かに金が必要です。値上げだって冗談じゃないというのもわからないではない。私だって払いたくはないものです。

 けれど。

 批判してる人達を見ていると...原発やら東電やらはむしろどうでもいいんじゃないのか?という人達もいて。

 あるいは被害にあった方よりも大きな声で叫んでいる。
 まだ現地の復興は、始まってもいない場所がたくさんあるというのに。
 出張で東北に行ったりした時に立ち寄る町並みはとても辛いものです。新幹線で行ける駅はまだいい。街は復興し、人々はたくましく生きている。騒ぐほどの何ものものなく、平穏で安全。飯もうまいし空気も...まぁ都市部を除けばおいしい。
 けど少し外れた海岸部に行けば...いまだまだ空が遠く。
 海が近い。
 景色が...あまりにも変わってしまっている。
 でも地元の人たちから出る言葉は明日のこと。未来への不安。
 過去を声高に責める言葉はあまり聞かない。

 大きな声で叫ぶ人たちはむしろ地元には少ないのかなと。
 生きるのに必死。
 まさにその一言だと思いますし。
 数年前もそうでしたし、今もまだそうだと思います。

 でも攻撃は止まらない。
 地元以外からの攻撃が止まらない。

 叩きたい対象があればそれでいいんじゃないかという人がたくさん見える。本当に叫びたい人達の声をかき消して、上書きするように不平不満を垂れ流す。
 ようは「あいつらばっかり高給取りで嫉ましいじゃないか。ひどい目にあえばいいんだ」ぐらいの感覚で攻撃にかかってる人が多いようにも見える。

 下手するとストレス解消に攻撃してるんじゃないのか、この人達?みたいな人もいたり。

 宗教じゃないですが「自分の居場所はここだ!」と感じて攻撃側に回ってる人も何人か見ました。天啓でもあったんでしょうか。私はそうした天啓を受けたことはないのでわかりませんが。

 もちろん未曾有の事故ですから企業としての責任があるのは確かです。
 危険だから原発はもうやめようという論議自体は結構なことだとは思いますが、どうも批判してる人の中の感情を見てると企業の責任がどうこうではない人も見え隠れ。

 ちょっと前の生活保護の問題にしてもそう。
 芸人さんがやり玉にあがってましたが、そこまで徹底的にみんなで叩きまくるのは...芸人さん本人でいいのかな?と。
 どっちかっていうと制度や運用方法じゃないのかな?と。もちろん悪用していたのならそれなりの罰則(課税)は必要でしょうけれど。

 制度の悪用やチェックする部分の問題をもっと大きく扱うべきなんじゃないか。
 まぁ政治家にも仕組みではなく芸人さん個人を名指しで責めてる人がいましたが...選挙で誰も気にせず投票してるんなら、そんな人ばかりでもいいということなんでしょうが。

 一時期の連日の報道にちょっとおかしくないか? という違和感を感じていました。
 今は日常の報道に違和感を憶え続けています。

 これも根底には...
「あいつらうまくやりやがって。悔しい。私たちより得してるじゃないか。だったら私だって欲しい」

 ...そんな感情が見え隠れ。

 自分たちより儲かってる。
 なんだかずるい。
 私だってできれば得したい。
 悔しい。

 ぶっちゃけてしまえば「ねたましい」

 その感情が表に出過ぎている。そんな風に思っています。

 あの事故以来、ずっと感じていること。あれ以来日本の表層にじわじわと浮かび上がってくる感情。
 TV番組では何かの事件が起こるたびに「コメンテーター」という名の人達がわざわざそうした嫉妬の心をあおっている。

 あれはきっと見ている人達の代弁者として出演しているんでしょうが...一定方向に人の心を向かわせるコメントばかりではただの扇動者ではないかと。
 代表してるんじゃなくて...言ってる言葉が代表になるよう仕向けてる。
 あるいはそう思い込ませようとしている。
 仕込まれた民意の扇動。

 そして人間なんてものは容易にそうした言葉につられてしまう。


 それは自分の言葉を持っていないからかな。
 確かな自分を持っていないからかもな。
 なんて以前は思っていました。

 だから他人の言葉にのっかりたい。
 他人の言葉で語りたい。
 難しいことはわからないけれど、「みんな」がそう言ってるんだからきっとそうに違いない。
 そうした「安心」の中から不満を誰かにぶつけたい。ねたましさに身を焦がしたい。みんなと同じところから。

 ...でもその「みんな」なんてどこにも存在しない。
 報道と自分の感情が作り上げた都合のいい後押しの幻想。

 安心感を生み出したいがために勝手に作り出したもの。
 私はずっとそう思っています。

 そうしたものに「うらやましい」とか「自分も得したい」などの心が混じり合うと...それは「うらめしい」へと変化する。

 先にも書きましたが生活保護の問題は本来その仕組みとか構造に問題を感じるべきなんじゃないかと思うのですが、報道の論調が「この芸人はずるい」という方向に少しでもベクトルを向ければ...あとは雪崩をうっての「けしからん」の大合唱。

 けれど私から見ているとそれは「あの野郎うまくやりやがって。ひどい目にあえばいいんだ。悔しいなぁ。自分も楽して得したいなぁ」と思う感情が向かう先に見えて。自分でもわかる感情だし...ちょっとなぁと。

 もちろん私がそう思ってるだけで、実際は違うならいいんですが。


 以前と違ってこうも思うのです。
 自分の言葉を持っていて。
 確かな自分というものを持っていても...人は感情の動物ですから、容易に感情に流されてしまう。
 目は曇るものだし道は間違えてしまうもの。

 けれど、今の時代のこの流れは...なんか違うなぁと。

 他人の意見に自分を重ねたがる。
 そしてありもしない「みんな」の声に後押しされて行動する。
 そうして集まった意見が最終的に「みんな」の意見へと変化していく。
 これはなんか違うかなぁと。

 自分に都合のいい「みんな」の声に乗っかって、相手が生きた人間であることを忘れたかのように苛烈に攻め立てる。あるいは無関心な態度をとる。
 そうして出来た意見に「そうだそうだ」とたくさんの人が乗っかることで本当に「みんな」の意見へと変貌していく。

 自分と他人との境界は明確なのに...自分自身を見ていない。他人のことも見ていない。そんな風にも思えて。
 自分がその場面に確かにいて。その現実の中の登場人物であることを認識しているのだろうか。自分の人生の主役は自分だといいつつ...場の流れの中に身を委ねてしまう。そんなことはないだろうか。

 そうして他人と自分との比較は「うらやましさ」と「ねたましさ」に終始する。
 幻想の「みんな」の考えに身を委ねて攻撃する時は嫉妬の感情で動く。
 そんな人が増えてはいないだろうか。

 ねたむという言葉は「妬む」とも「嫉む」とも書きます。
 「そねむ」と同じ漢字で読めるし書ける。
 どの道いいイメージはないんですが...

 他人との比較の中にしか自分を見いだせなくなってはいないだろうか。
 他人の言葉で語ってはいないだろうか。
 そんなことをずっとこの数年思ってきました。

 東電にしろ生活保護にしろそうでしたが...
 マスコミが次のエサというか燃料を投下したら...ねたましさに溢れた「みんな」とやらの言葉も心もそちらに向かい。
 再び苛烈な行動や言葉が起きるんだろうな。
 そんな目で見ていたりします。
 自衛隊を暴力装置と呼ぶマスコミもいますが...

 ペンはなぜ剣よりも強いと言われるのか。
 人を容易に操れる言葉を紙面や映像で吐き出せる人達は、持てる力は直接暴力的ではないのかもしれませんが。
 心の暴力を引き起こす暴力装置になっているんじゃないか。そんな風にも思えます。
 自分達はそうではないと言うでしょうしそう思っているでしょうが...実際はどうなのか。

 また、運動行動にも思うことがあります。
 行動を起こすのはいいのですが、その行動に目的がなければ意味がない。そう考えます。
 デモをするなら、そのデモを誰に見てもらって何を訴えるのか。
 原発反対というなら「多少不便になっても安心な国を!そのために戦ってくれる仲間を募集します」でもいいですし「きちんとやってくれる政治家を選びましょう」でもいいんですが、もっとわかりやすい明確なものを掲げた方がいいだろうにと。
 ただ叫ぶだけなら意味はない。
 ただの発散。
 一過性のなにかで終わってしまう。
 結果を求めるならそのエネルギーはきちんと使わないといけないかなぁと。
 不安に感じることはたくさんあります。明日だってどうなるかわかったもんじゃない。それは私だって同じ。
 けれどその不安に必要以上に苛まれてはいけない。
 以前別の記事でも書いた言葉です。あの時はサーバーの移動の話でした。
 抜粋すると...
背景にあるのは「不安という名の見えない刃」だと私は思っています。漠然としたモノではなくすでに「刃」と化した不安感。それが経営者を、担当者を短期間での無理な移動や運用、新システムの導入や稼働へと突き進ませる。」

 根源は同じかな。と。

 たくさんの人が持つ不安という名の見えない刃が自分自身を切り刻む。
 嫉妬の心が行き場を求める。
 それらはうねりとなって行動へと直結して行く。
 私にはそれはとても恐ろしいものに思えます。

 世の中が平等ならば「ずるい! 自分も得したい!」でいいかもしれません。
 求めよされば与えられん。
 そういう世界ならよかったのかもしれません。

 けれど残念ながら平等ではない。
 人はいつだって生まれながらにして不平等です。

 昔...といっても昨年のことですが、市民団体の方と話す機会がありまして。(PCが調子悪いというので見に行ってあげていた)。
 そこで主婦の方々が集会場の中で...どこを見ているかわからない視線で気勢をあげていました。
 子供たちに平等な環境を! などと。
 競争はよくない。みんな平等に扱わないといけない!とまぁ熱く語っておられる。

 最初のうちは黙っていたんですが、どうも論理がかみ合わないというか論拠がないというか聞いてて支離滅裂で。
 そのうちこっちにもぴーちくぱーちくと言い出した。
 最初は適当にあしらっていたんですが、どうにもしつこいしうるさい。
 生来のひねくれものの血が騒ぎ。
 つい聞いてしまったんですね。

「本当に世の中が平等だと思ってるんですか?」と。

 まぁいろいろな意見が出ました。平等でなければいけない等々騒ぎ立てられて。平等のはずだと。

 なるほど本当に平等だと思ってるんだなぁと。もっと平等にしたいんだなぁと。

「ではなんであなた方の旦那さんは社長とかじゃないんです?
 なんで金持ちじゃないんです?
 そうしたら子供達は自分の親の職業や地位で格差を感じることもない。
 皆平等なんでしょう?
 それとも金持ちなんですか?高い役職についておられる?
 あなたちより貧乏な人はたくさんいる。
 ならばあなたがもってる富を分け与えて平等になるようにしないんですか?
 あなた方が求める平等ってのは、あなたたちより恵まれてる人たちを自分達を同じように低くしろっていうことなんですか?
 それも子供にも適用しろと。
 結局のところご自分が優劣つけられるのが嫌なんじゃないんですか?
 他人の子供と自分の子供とを比較されて自分が惨めになるのが嫌なんじゃないんですか?
 子供同士を比較されることで親が恥ずかしいと思うことが嫌なんじゃないんですか?
 親の勝手な嫉妬で子供に平等を押しつけてはいませんか?」
 などと言ってしまい。(実際にはもっと苛烈な言葉をかけてますが)
 まぁいらんことを言った訳ですが、紛糾するかと思えば絶句されてしまいこっちが困るありさまに。
 絶対反論されると思って言ったんですが...こちらの言葉があまりにきつかったのか。

 追加でこうも言いました。

 「弱者を救済して当然受けられるべき教育や生きていくための補助をしてあげるために平等を求めてるじゃないんですか」と。

 皆押し黙ってうつむくばかり。さっきの勢いはどこへやら。
 なんで誰も反論しないんだよ...とむしろこっちが困ってしまい。
 (自分の言葉で話していてもその自分の言葉への反論も私の頭に浮かんでいたわけで、私が同じ言葉を言われたらこう返すだろうな...みたいな言葉も浮かんではいたんですが、皆押し黙ってしまってうつむくばかり)

 反論して欲しかったんですが...自分の言葉ではなく他人の言葉だったのか...反論らしい反論はなく。

 私自身の考えでいえば、格差は常にあるし生まれながらにして人はまったくもって平等じゃない。

 両親が揃っていない者もいれば貧乏も裕福も人によって生まれる家によって親によって違う。

 持って生まれた資質によって有利不利がある。

 人は生まれながらにしてスタートから違う。

 誰もがわかっているのに目をつぶる。つぶった目のまま叫びだす。

 恵まれている人や富める人を自分たちと同じレベルまで落として「平等」だと言うならそれは平等でもなんでもない。

 スタートが違っていても他人にない部分を磨いて違うゴールであっても同じような高みを目指す。それが人生という名の競争だと思うんですが...

 平等だなんだと言う人達の根底にもやはり「ねたみ」と「そねみ」が見え隠れしているようにも見えるのです。
 虚栄心や嫉妬心も強すぎれば毒となります。適度ならば原動力として素晴らしい力にもなるのですが...

 原発廃止論も論ずるのは別段構わないのですが(むしろもっと活発にやっていいと思う)、どうも見てると「今すぐ止めろ! でも電気料金はあげるな! 安定供給も続けろ!」という論調で。さすがにそんなもん無理でしょう段階的にやらないとと言うと「あれだけのことをやらかしたのだから当然やれ!お前あいつらの味方か!」という言葉が返ってきまして。
 何を言ってるのか個人的にはわからない。
 出来る出来ないではなく「やれ」な訳です。理屈も何もあったもんじゃない。それを「やる」ためにはどうしたらいいのか。そのためには何を我慢しなきゃいけないのか。それすら論じない。顔を真っ赤にして「いいからやれ」でしかない。
 無能な上司と話してる気分にさせられてげんなりします。責任者が責任を取らない現場と同じ空気すら感じます。

 そもそも日本の産業が潤沢な電気を源泉として発展したきた訳で、そのために火力では立ち行かないと考えて原子力発電に賭けてここまできたと私は思ってます。だからある程度安価に(それでも高いなーとは個人的には思っていましたが)停電も少ない状態で今までやってこれた。

 リスクがあってメリットとデメリットがあるのはまぁ当たり前。

 そのメリットを今まで最大限受けてきたうえで大規模な事故が起こった。
 デメリットが一気に...借金を一度に返すかのようにどばっと襲ってきたわけです。
 じゃあ今後どうするのか。
 その話の中で「即時全部停止の上なるべく近いうちに廃棄」という選択をするならそれはそれでまぁアリなんだろうと。
 でもそうしたら今まで通りのメリットはなくなる。
 電気代は上がるかもしれない。
 停電も起きるかもしれない。
 産業も成り立たないかもしれない。
 それでも危ないのは嫌だ。原発はやめようという選択を国や国民がするならそれはそれ。

 それが嫌ならそうでない選択をしている国に行けばいいだけのことですし。
 最終的な結論をどう受け入れるか...
 あるいは最新の原発導入というのも結論のひとつ。資源に乏しいこの国に生きるならば。そうも思っています。

 ただ...どうも感情的に、盲目的に、「反対反対」叫んでいるだけでは何も進まないなぁと。そう感じます。

 産業は成り立たせたい。
 電気も今までどおりよこせ。
 でも原発はだめだ。
 あとお前ら苦しめ。これだけのことをしたんだから。
 そんな感じの論調ではとても賛同する気にはなれない。
 その言葉の裏にもやはり「ねたみ」と「そねみ」があるのかもな...と思う時があります。
 もちろんそうでない人もたくさんいるでしょう。私が大きく間違った感想を持っているだけかもしれません。
 それならばそれでいいんです。
 けれど私にはそう見えているというだけの話ですから。
 間違っていれば間違いを訂正して恥ずかしい思いをするでしょうけれど...それならその方がなんぼもいい。

 全てを敵と味方で考えるのは日本人というかアジア人の悪い癖かなと思っているのですが、世の中そんな簡単じゃない。

 時代劇のように。あるいはヒーロー作品のように。
 悪は悪。善は善。

 そんな単純なものではない。誰しもが善と悪との狭間に生きているのだと思いますし。
 
 不満をぶつける相手は悪がいい。自分が傷つかないですむから。まぁそんなところなのかな...と漠然と思う時があります。
 様々な不満が後押しする中で。
 さらに人々は「完全に安全なのか」とか「完璧な運用を」などと言い出す。
 それは「平等なのだから優劣をつけるな」なんて言葉と同じに私に聞こえます。

 同列に扱うなよと言われそうですが。

 どちらもただ感情のままに叫んでいるだけで...正義はあるかもしれないが、それでいいのかなと。
 正義が常に正しいなんてことはなく。
 戦争も正義と正義のぶつかり合いで起こるものですし。

 どちらの言葉も無理なことを感情のままにやれと叫ぶことには違いないと思っています。

 無責任なリーダー達、責任者達によって運営される国。
 感情のままに突き進む人々。
 尊敬する人たちに「これが今の日本の姿だよ」と言われると...ちょいと悲しい気分にもなったり。みな日本を憂いているわけではなく、冷たい視点で「だめなら出てくだけだしな」とみている。


 今日もいろいろな言葉がネットで現実でTVで新聞で飛び交います。

 どう見ても感情論な言葉を政治家がぶつけていたり。

 あるいはたくさんの人々が集まって叫び声をあげながらデモ行進をしていたり。

 その内側にあるのはなんなのか。

 自分の言葉をもたない人達...他人の言葉に乗っかる人達...ありもしない民意とやらを掲げる人達...

 そしてねたましさを表に出した人達。
 それは一人の市民でも政治家でも何も変わらず。ひとつの感情に支配されて動かされている。

 うらやましいという感情は誰にでもあるわけですが。(私だってもちろんあります)
 そのうらやましさが「うらめしさ」に変わっていく時。


 「ねたみ」と「そねみ」のその先に。

 その先にある未来ってどんなものだろうなと。
 その中で自分はどういう考えを持ち、どう行動すべきだろうかと。
 いろいろと考えています。いざという時動けるといいなと思いつつ。

 その先に暗い未来ではないものを掴もうとするならば。
 ねたましさを原動力に変える方向を模索したり。
 あるいは違う感情を起爆剤にしてうまく出来ないものかな...とか。
 
 「その先」にあるものをどうするのか。どう変えていくのか。
 それは私も含めた「今」に生きる人たち次第なんでしょうから。
 生きる限り考えて行こうと思っています。


※生活保護余談
 実際のところ生活保護という仕組み自体は必要だと思ってます。自分一人ではどうにもならない。誰かの助けが必要だ。本来はそういう人を助ける仕組みだと思っています。

 最低限の衣食が足りて人は己を律することが出来ます。
「衣食足りて礼節を知る」
 人は最低限の生活を維持できないと感情と理性がどうにもおかしくなるものです。

 人が文化的に生きるためには最低限の財力がなければどうにもならない。こんな世の中ですから。

 でもそれすらままならない人もいる。
 病気かもしれない。
 怪我かもしれない。
 事情は様々ですが、そうした人のためにはやはり生活保護は必要でしょう。

 働けるのに働かないのは論外ですが、生活が苦しいからってのはちょいと判断が難しい。

 私も母一人に育てられましたので子供時代はやはり苦しい苦しいと母がこぼすの聞いてましたから。
 寡婦の方への援助は必用だと思っています。両親揃ってたって結構厳しい世の中ですから。
 寡夫の方だってそうです。家を買ってローンを組んで、子供を育て...そんなタイミングでパートナーが亡くなったらどうなるか。

 子育て支援というなら、そうした面にもどんどん力を入れてほしい。
 もちろんその程度がどれほど必用なのかは判断が難しいところなんですが...

 ただ、海外の方による不正受給や働けるのに悪用して受給してる人にはきちんとした対処が必要でしょう。
 いやまぁ外国人って言い方もあまり好きではないんですが...不正でないなら受給もアリだとは個人的には思ってますけれど。
 長年日本で働いた実績があってずーっと住んでます...みたいな人にはやはり手は差し伸べるべきなのかな?と。
 あくまで個人の考えですが。
 移民しろって簡単にいいますが...なかなか許可降りないですしね。
 実際のところ。
 
 個人的には「働けるけど働かない」って人には尖閣諸島辺りの開拓にでも駆りだして俸給出したらどうですかと言ってますが、まぁ実現は難しいでしょう。でもそのやり方なら待遇は公務員みたいなもものに出来ますし使う場所もないから金も貯まるかな、と。
 ああしたところで働くのですから衣食住全て負担がいらないようにしないといけないわけで。
 血税だろ?と言われそうですが国土(正確には海域ですか)から得られるもの等考えれば働く人達に支払う金額など小さなものかもしれません。
 洋上基地建設なら血税で作っても無駄にならないでしょうし、金も使わないかなと。

 まぁ私の意見はそんなものですが、実際のところ周りを見てるとどうもおかしい。
 生活保護自体がいけない、制度を利用すること自体が悪い事のように言っている。
「そんな風になってしまった自分が悪い。きちんとしていれば、保護を受けることもなかったはずだ」

 なるほど正義溢れる言葉です。ですがそうならざるを得なかった人というのもいるわけで。好きで辛い思いをしてる訳ではない。
 しまいには「家族の面倒を見るのは法律で定めるべきことだ」などと言ってる政治家まで出てくる。

 無条件に子が親の面倒を見るのは当然という考え方には賛同しかねます。

 少なくとも私はずっとそう思ってきました。

 娘をレイプするような親でも娘が面倒みなきゃいけないのか。
 酒で暴れる親でも子供が面倒見なきゃいけないのか。
 まして家族の在り方を法で縛るのか。私にはどうも理解出来ない。

 親は親。子は子です。互いを尊重しこそすれ、いずれ別れるべき別個の人格を持った生き物です。
 親を無条件で尊敬することなどない。
 良さも悪さも家族として見せてくれて、それでも育ててもらったり優しくしてもらったり厳しくしてもらったりした現実が尊敬の心を生むと思います。

 役人や政治家のいう「柔軟な対応」とか「臨機応変」とか「例外的に」なんてものはまったくもって信じてはいけないと母にも尊敬する人達にも言われてきたことです。

 ITの現場もそうですが、「柔軟な」とか「汎用的」なんてのはただの詐欺師の言葉です。まったくその通りになることはない。

 私自身も大人になってから「確かにそうだな」と思うことしきり。
 規則を守らせる側が運用を柔軟に...などというのはそもそも無理があるような。
 難しいことは言いませんが。
 制度をどう運用するのかは...難しいことなんですよね。
 いろいろと。

 完璧主義者はいうのです。
 ちゃんとやれと。

 運用ってのはそう簡単ではないなぁと個人的には思うので...
 そんな簡単ならIT系ユーザー部門の運用担当者が鬱病になる確率はもっと減るはずです。
 私もやりましたが、あれは辛い。
 辛すぎる。
 サンドバッグの中に入って殴られまくる方がまだ楽だ。


 まぁなんにしろ、いろいろと試行錯誤しながら制度改革が進めばいいなと思っています。
 少なくとも私は子供が親の面倒をみるのが当然という考えは持っていません。
 尊敬出来る親だからこそ面倒をみたいとは思っていますが、それは強制されるものではないと思います。
 尊敬も出来ない親ならば。子供が面倒見るもんじゃない。
 けどまぁいろいろな理由があり、一人では生きていけない人がいる。
 人は生まれながらにして平等ではない。
 だからどうしようもなくなってる人だってやっぱりたくさんいるだろうと。
 やはり国なりなんなりが助けを出す必要はいつまでだってあるんじゃないか。
 そう考えています。
 どうもうまいやり方が浮かんではいませんが...尊敬する先輩は「相続税を何倍にしてもらった金を全部老人福祉にあてりゃいい」とか言い出したりして。なんて乱暴なとも思うのですが、そのぐらい思い切ったやり方でないと硬直化した制度は変わらないのかなぁ...とも。